田口村(読み)たぐちむら

日本歴史地名大系 「田口村」の解説

田口村
たぐちむら

[現在地名]霧島町田口

曾於郡そのこおり大窪おおくぼ村の北、霧島連山南麓にある。北から南へ流下する霧島川は西御在所にしございしよ霧島六所権現(霧島神宮)の南方で向きを南西に転じ、狭名田さなだ(襲川)を合せて同郷川北かわきた村へ入る。東は日向国諸県もろかた西嶽にしだけ(現宮崎県都城市)、西は桑原くわはら中津川なかつがわ(現牧園町)。北東から南西へあや筋が通る。西霧島村ともよばれ、また門前辺りは霧島町と称された(西遊雑記)。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には曾於そお郡の田口八町がみえる。天正四年(一五七六)には日向伊東氏の軍勢が霧島東麓の高原たかはる(現宮崎県高原町)からしばしば山越えして島津氏領の田口・大窪に侵入し、これが島津氏による日向侵攻の理由となった(「明赫記」、「島津義久譜」旧記雑録など)島津義久は翌五年一二月の日向攻めの際大隅正八幡(現鹿児島神宮)に社参ののち、同月一一日田口に宿泊、翌一二日高原へ向かっている。翌六年九月一二日にも帖佐ちようさ(現姶良町)から船に乗り鳩之脇はとのわき(現隼人町)に上陸し、陸路宮内みやうち(現同上)を経て田口に着き、翌一三日田口を出発して霧島山麓の作道を通り高原へ向かった(「日州御発足日々記」旧記雑録など)

田口村
たぐちむら

[現在地名]大川市三丸みつまる

兼木かねき村の南に位置し、東は大坂井おおさかい村、南は田脇たわき(現柳川市)。実質的には東田口村・西田口村の二村に分れていた。中世は三潴みづま西さい郷のうち。弘安二年(一二七九)一二月二八日の将軍家政所下文案(川瀬氏所蔵文書/鎌倉遺文一八)に豊前国入学にゆうがく(現行橋市)の代所として「筑後国田口村地頭職」が豊前左近蔵人(田原)泰広に与えられた。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると、大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)の冬烝使頭官料一石六斗を負担し、五月会で一物・村田楽・尻巻・右方相撲人を出し、九月一九日の九月会では一番の頭役を勤めその料田一町があった。貞和三年(一三四七)九月二三日の高良宮祭料米色々神役村々注文写(御船文書/南北朝遺文(九州編)二)では冬の祭礼に祭料米一石六斗・大念仏供米一石八斗・九月会祭頭・村田楽・尻巻・相撲・一物・回廊二間、大善寺檀供三一枚・大餅を負担。

南北朝期以降も地頭職を大友氏の庶家田原氏が有した。建武元年(一三三四)六月、雑訴決断所は大友豊前蔵人次郎(田原)盛直法師に「筑後国田口村惣領西方三分二」等の地頭職の当知行を安堵しており(同月一六日「雑訴決断所牒」田原卯七文書/南北朝遺文(九州編)一)、暦応二年(一三三九)一一月八日には足利直義が田口西方三分一等の地頭職を豊前蔵人三郎(田原)直貞法師に安堵した(「足利直義下文写」大友家文書録/南北朝遺文(九州編)二)

田口村
たぐちむら

[現在地名]三光村田口

八面はちめん山北麓にあり、西は諫山いさやま村、北は森山もりやま村・成恒なりつね村。嘉禎二年(一二三六)三月一〇日の大神仲子所領所従譲状(田口文書)に「下毛郡諫山郷田口浦」とあり、宝治元年(一二四七)七月一日の沙弥西阿譲状案(奥山猪三郎氏所蔵文書)には、「下毛庄田口村」とみえる。村内には市丸いちまる名があり、田部(田口)氏が名主職を相伝しており、付近には重光市丸しげみついちまる末久市丸すえひさいちまる能得よしとく鬼丸おにまる末藤すえふじ是房これふさ金法師かなほうし覚命かくみよう等の名田があって(文保二年七月二五日「田口成任譲状」田口文書など)、田部氏がその一部を所持していたことがその後の田口文書で知られる。承久三年(一二二一)の豊前国下毛庄検田目録(永弘文書)には、猪山いやま社上分田三町(成枝名)大根河おおねがわ(現宇佐市)免一〇町の内に本市丸ほんいちまる・末久市丸・重光市丸より各一町が含まれている。

田口村
たのくちむら

[現在地名]枚方市田口たぐち一―五丁目・田口山たぐちやま一―三丁目・出屋敷西でやしきにし町一―二丁目・出屋敷元でやしきもと町一―二丁目・山田池やまだいけきた町・みなみ町・ひがし町・公園こうえん〉・北片鉾きたかたほこ町・片鉾本かたほこほん町・交北こうほく一―四丁目・甲斐田新かいだしん町・甲斐田東かいだひがし町・上野うえの三丁目

洪積層の丘陵台地に位置し、北部を穂谷ほたに川が西に流れる。交野かたの郡に属し、北は招提しようだい村、東は長尾ながお村。郷村帳類には田ノ口・田野口と記されることが多い。集落東方に位置する山田池は、当村のほか片鉾村・甲斐田村の灌漑に用いられた一六ヘクタールの大池であったが、鴨の名所としても知られていた(枚方市史)。江戸後期には、本郷と山田池との間を南北に通じる東高野街道に沿って枝郷の出屋敷が形成された。

田口村
たぐちむら

[現在地名]東広島市西条さいじよう町田口

下見したみ村の南に位置する。黒瀬くろせ川が北の御園宇みそのう村から吾妻子あづまこ滝を下って西流、西の吉川よしかわ村から東流する古河ふるこう川と字落合おちあいで合流して南の小比曾大河内こびそおおかわち村へ流れる。下見村との間には標高三三〇メートルの山があるが、その西の丘陵は低く道が通じていた。永正六年(一五〇九)八月一三日付大内義興下文(千葉文書)によると、松橋与三郎知行分の「三永方田口村内仏師名拾貫文足」が神保信胤に宛行われている。「仏師名」は現在の字武士ぶしにあたると思われ、田口村は三永みなが方とされている。大永三年(一五二三)八月一〇日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)では田口村七五貫のうち、三五貫が阿曾沼氏、残りが大内方諸給人の知行であった。

田口村
たぐちむら

[現在地名]古殿町田口

竹貫たかぬき村の西、さめ川中流の埋れ谷に立地。御斎所ごさいしよ街道が通る。中世に田口氏が拠った田口城は、北条時村(あるいは時頼)が居住したとも伝え、北条ほうじよう(天王館)とも称する(古殿町史)。字久保田くぼた西光さいこう寺木造阿弥陀如来坐像の胎内墨書銘に、応安四年(一三七一)一二月の年紀と「大檀那田口村西光寺」とみえる。同寺木造地蔵坐像銘には同七年八月二八日の紀年で「たくち西光寺」とある。両像とも仏師乗円作で県指定重要文化財。

田口村
たぐちむら

[現在地名]度会町田口

宮川中流右岸段丘上、支流注連指しめさす川との合流点にある。東は麻加江まかえ村と山地で境し、西の注連指川対岸は黒坂くろさか(現大宮町)。南の山麓を滝原たきはら(現大宮町)への道が通る。村はこの道に沿い上・下の二村からなる。水田は山麓にあり、北方の宮川沿い平地は近年まで山林であったが、現在は茶畑である。古くは神宮領七ヶ谷郷の本郷であったが、延宝年間(一六七三―八一)に和歌山藩田丸領山神組となった。室町時代後半の内宮への神役負担の状況がうかがえる荒木田守武筆という「年中神役下行御贄以下記」(神宮文庫蔵)に、

<資料は省略されています>

とあり、田口が内宮領七ヶ御薗とよばれる現度会町から現大宮おおみや町へかけての諸村の中心本郷にあたると考えられる。

田口村
たぐちむら

[現在地名]前橋市田口町

利根川左岸、現前橋市域西部の最北端にあたり、北は下箱田しもはこだ(現勢多郡北橘村)、東は横室よこむろ(現同郡富士見村)、南は関根せきね村に接し、西の利根川対岸は群馬郡漆原うるしばら(現北群馬郡吉岡村)。天正三年(一五七五)四月一三日の武田勝頼書状写(諸州古文書)によれば、内藤昌豊に対し「利根川橘瀬・田口之瀬」以下の渡場の深浅を見届けるよう命じている。寛文郷帳に田方四〇二石五斗余・畑方一七四石二斗余とある。

田口村
たぐちむら

[現在地名]菰野町田口

福王ふくおう(五九八メートル)の東麓にあり、北は員弁いなべ郡の宇賀うが(現大安町)、南は田光たびか村。巡見街道が村の中央を南北に通る。「神鳳鈔」に「二宮田口御厨二十一丁、各三石、六九十二月」と出る神宮領であった。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写では「六百文長とく五百文、宮司百文」とあり、この頃まで神宮との関係が続いていたことが知られる。

田口村
たぐちむら

[現在地名]岡崎市田口町

青木あおき川の水源地にあたる盆地で、北に標高二二五メートルの山、東に二六〇メートルの山、南に二四五メートルの山を控える。山峡をたどって北は大井野おおいの村に至り、東は板田いただ村を経て岩谷いわや村・中畑なかばた村に通じる。西の峠を過ぎて箱柳はこやなぎ村に至る。中世、中山なかやま庄に属すという。「三河堤」に「田口村 中根七九郎並中根党」とある。菅沼系図によると菅沼正勝が天正年中(一五七三―九二)額田ぬかた郡田口村において五〇〇石を受けたと記す。その後岡崎藩領となり明治に至る。東山中手永に属し、慶安二年(一六四九)の検地帳(岡崎市史)に分米合三五一石余とある。

田口村
たぐちむら

[現在地名]板取村 田口

南流する板取川西岸に位置する。対岸は保木口ほきぐち村、南の下流は野口のぐち村。南西の谷筋アラ谷(新谷)を行けば山県やまがた万所まんどころ(現山県郡美山町、当時の円原村の小集落)へ通じる。中世には長屋信濃守重景の居城田口城(板取城)があったとされる。長屋氏は垂井たるい(現不破郡垂井町)城主であったが、永正元年(一五〇四)相羽あいば(現揖斐郡大野町)へ移り、その一族が一六世紀前半に板取郷へ入ったと思われる。重景の孫景重は鉈尾山なたおやま(現美濃市)城主佐藤方政と争って文禄三年(一五九四)敗北し、実子金森可重を頼って飛騨へ逃れたという。

田口村
たぐちむら

[現在地名]美甘村田口

美甘村の南東にある。首切くびきり峠の地点で曲流して南流する新庄しんじよう川の左岸に位置する。右岸は延風のぶかせ村。村内を出雲往来が通る。当地と延風は蛇紋岩地帯に属し、当地では新庄川に面した約八〇〇メートル、奥行一・二キロの範囲で地滑りが起こり、谷方向へはい出した。地滑地は段々に連なる棚田景観を呈している。文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村書(肥塚家文書)に「たくちの三郎大夫」、天文一四年(一五四五)二月吉日の檀那村付帳(同文書)には「ミかもの内たくちの内」として「たくちゆきなか名」とみえる。

田口村
たぐちむら

[現在地名]福崎町田口

板坂いたさか村の北に位置し、村の北西端にそびえる七種なぐさ(六八一メートル)に源を発する七種川の最上流の谷間に立地する。神西じんさい郡に属し、西は飾西しきさい新庄しんじよう(現夢前町)。当村から東の甘地あまじ(現市川町)方面へ遍路道が通じていた。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方八〇石余・畑方六〇石余、「旱損所・柴山有・新田有」と注記される。天保郷帳では高一八七石余。幕末、姫路の三宅庄蔵が七種新田五町七反を開墾したが、明治一二年(一八七九)溜池が決壊して大半が荒蕪地となった(神崎郡誌)

田口村
たぐちむら

[現在地名]千歳村船田ふなだ 横脇よこわき仲村なかむら仲尾なかお

船木ふなぎ村の北西、田口山(三二一メートル)の北麓にある。「和名抄」所載の大野郡田口郷の遺称地とされる。建久二年(一一九一)三月一八日の深山八幡社神領坪付境注文案(上津八幡社文書)に「一所 中村 田口名 二月神事免」とあり、大野庄なか村の田口名に深山ふかやま八幡社(現朝地町)の神領があったことがわかる。ただし当地と中村の間に大野庄しも村が広がっていたと考えられるから、この田口名が当地一帯をさすかどうかは注文案の年号とともに検討を要する。

田口村
たくちむら

[現在地名]峰町三根みね

三根浦の水際で、現在も田口原たぐちばるという地名が残る。中世は三根郡のうちで、文正二年(一四六七)一二月一三日の宗成職書下(三根郷給人等判物写)に三根郡内の死名跡の「田口」などが宗弥次郎の扶持として与えられた。応仁三年(一四六九)「三禰之郡内田口塩竈」が給分として田口佐四郎に宛行われた(同年正月二九日「宗貞国宛行状」同判物写)。長享二年(一四八八)田口の中間彦三郎の持留分が彦三郎に安堵された(同年一一月五日「宗貞国書下」同判物写)。天文二一年(一五五二)「たくちつやなきの間」で御西の被官に協力する必要はないと早田三郎左衛門尉に伝えている(同年一一月二〇日「宗康次書状」同判物写)

田口村
たぐちむら

[現在地名]室生村大字田口

室生村南方、室生川流域にあり、室生寺から南下する道が伊勢本街道と交わる交通の要所に立地する。「大乗院雑事記」文明七年(一四七五)正月二六日条に「宇多郡田口庄関料以下安位寺殿御料所分事」とみえ、「経覚私要鈔」にも「田口関」の名が散見する。

慶長郷帳では村高八八一・〇六石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)幕府領となる。宝永六年(一七〇九)上田口村(村高四九六・五六三石)と下田口村(村高四七九・三石)に分割した。さらに享保六年(一七二一)上田口村から角川つのがわ(村高八二・五八三石)黒岩くろいわ(村高一六二・四九七石)が分離独立したので村高は二五一・四八二石となる。

田口村
たぐちむら

[現在地名]下呂町田口

夏焼なつやけ村の南東、川の上流にある。元禄飛騨国検地反歩帳に中呂ちゆうろ郷として村名がみえ、高一六石余、田一町九反余・畑一町一反余。「飛騨国中案内」によれば下原しもはら郷で免二割四分七厘余、家数一四。松のある岩巣尾山は家木山となっていた(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)

田口村
たぐちむら

[現在地名]吉備町田口

中島なかしま村の北、有田川の北岸に位置し、三方を山に囲まれる。「続風土記」は「田口・須谷の中間、山脚川端に突き出て此所に至りて北に向ひて一渓をなし始めて田畑あり、因りて田口の名あり、人家多く谷口にあり、実に小村なり、小名上須谷あり、今は人家なしといふ」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報