板取村(読み)いたどりむら

日本歴史地名大系 「板取村」の解説

板取村
いたどりむら

面積:一八五・八二平方キロ

県中部の西寄り、武儀郡北西部に位置し、当村に源を発する板取川が村域中央を曲流しながらほぼ南流する。東は郡上ぐじよう八幡はちまん町・大和やまと町、南は洞戸ほらど村、西は山県やまがた美山みやま町・本巣もとす根尾ねお村、北は福井県大野おおの和泉いずみ村に接する。北の県境には滝波たきなみ(一四一二メートル)など一〇〇〇―一四〇〇メートル級の山々が連なる。

板取村
いたどりむら

[現在地名]板取村 白谷しらたに加部かべ門出南かどいでみなみ門出北かどいできたかみ岩本いわもと九造くぞう松場まつば中切なかぎり野口のぐち田口たぐち保木口ほきぐち杉原すぎはら杉島すぎしま島口しまぐち門原かどはら三洞さんぼら

現在の板取村から老洞おいぼら生老しようろ松谷まつたに地区を除いた地域の江戸時代の村名。太閤検地の際の天正一七年(一五八九)七月一五日の板取之内村々検地帳写(長屋文書)によれば、総石高一七五石六斗余。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦後、幕府領となる。慶長郷帳では高一七五石。元和五年(一六一九)尾張藩領となる。正保郷帳では田高二五石・畑高一五〇石・紙舟役一石余・山年貢二二石余。明暦覚書では概高三八五石余、人数一千四八九、馬四九。その後、当村は白谷・加部・門出かどで岩本九蔵くぞう・松場・中切・野口・田口・保木口・杉原・島口・門原の一三ヵ村に分村し、各村は尾張藩領として幕末に至る。

板取村
いたどりむら

[現在地名]今庄町板取

四周を山地に囲まれ、北陸街道(東近江路)に沿う。同街道を北東に行けば孫谷まごたに村に、南に行けばとち峠を越えて木之本きのもと(現滋賀県伊香郡木之本町)に通ずる。「源平盛衰記」巻二八によれば、寿永二年(一一八三)平維盛らが源氏追討のため北国に下向した時の様子を述べて、「東路には、片山かたやまはるうら塩津しおつの宿を打過ぎて、能美越のうみごえ中河なかがは虎杖崩いたどりくづれより、還山かへるやまへぞ打合ひたる」と記され、「帰鴈記」は「盛衰記に虎杖とかけり、此辺に虎杖といへる草のおほく生侍るゆへにや」と記している。

板取村
いたどりむら

[現在地名]松川村板取

現松川村中部で、川の流域に位置する。

板取の名は明応一〇年(一五〇一)二月一一日の三宮穂高社御造宮定日記に、「御玉垣二方半 細野・賀治屋毛見・板取三ケ郷所役」とあるのを初見とする。

下って、文禄年間(一五九二―九六)の筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附によると「弐百七拾三石五升九合 板取村」と記されている。板取の名の由来についてはつまびらかでない。水田農業を主体としてきた村であり地味は決して高くはないが、開発は江戸時代初期活発に行われ、慶安三年(一六五〇)三月の松本藩の検地の時点では、村高四二九石二斗九升二合一才と増大している(榛葉春生氏蔵検地帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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