瀬川如皐(読み)セガワジョコウ

デジタル大辞泉 「瀬川如皐」の意味・読み・例文・類語

せがわ‐じょこう〔せがはジヨカウ〕【瀬川如皐】

[1806~1881]江戸末期の歌舞伎作者。3世。江戸の人。5世鶴屋南北門下で、中村座立作者となった。作「与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし」「東山桜荘子ひがしやまさくらそうし」など。

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精選版 日本国語大辞典 「瀬川如皐」の意味・読み・例文・類語

せがわ‐じょこう【瀬川如皐】

江戸の歌舞伎作者。江戸の人。五世鶴屋南北に師事。嘉永三年(一八五〇三世襲名。四世市川小団次に「東山桜荘子佐倉宗吾)」、八世市川団十郎に「与話情浮名横櫛(切られ与三)」を書いた。文化三~明治一四年(一八〇六‐八一

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改訂新版 世界大百科事典 「瀬川如皐」の意味・わかりやすい解説

瀬川如皐 (せがわじょこう)

歌舞伎作者。5世まである。3世までが有名。(1)初世(1739-94・元文4-寛政6) 屋号新浜村屋。号東園。俳名如考,如皐。大坂振付師市山七十郎の子。もと市山助五郎門下の若女方の役者で市山七蔵。1768年(明和5)江戸に下り,2世瀬川菊之丞門下となり,瀬川七蔵,のち乙女(おとめ)と名のる。84年(天明4)作者に転じ俳名の瀬川如皐を筆名とし,実弟3世瀬川菊之丞一座の作者をつとめ,主として浄瑠璃作詞をなす。富本の《名酒盛色の中汲(なさけざかりいろのなかくみ)》をのこす。(2)2世(1757-1833・宝暦7-天保4) 号狂言堂。俳名文車,如皐。1779年(安永8)五百崎文治の名で初出勤。河竹新七門下となり河竹と改姓。86年(天明6)中村仲蔵に付いて大坂へ下る。江戸へ帰ってのち3世瀬川菊之丞付きの作者となり,1801年(享和1)瀬川如皐を継ぐ。変化舞踊変化物)流行のパイオニアの一人。これといった作品はないが,古老として故実に通じ,随筆《牟芸古雅志(むぎこがし)》を書く。(3)3世(1806-81・文化3-明治14) 幼名六三郎。通称吉兵衛,馬道の狂言堂。号吐蚊(とぶん),二五壮(にごそう)。糶(せり呉服屋を営むかたわら5世鶴屋南北に付き,1839年(天保10)絞吉平(しぼりきちべい)を名のる。翌年3世姥尉輔(うばじようすけ)の名で初出勤。44年(弘化1)4世中村歌右衛門の取立てで藤本吉兵衛と改め,さらに50年(嘉永3)瀬川如皐を継ぐ。4世市川小団次と提携して《東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)》《与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)》などで人気作者となる。晩年ライバル河竹黙阿弥(当時新七)におされ,不遇のうちに終わる。浄瑠璃の作詞をよくするほか,歌舞伎種の合巻も書いた。(4)4世(1857-1938・安政4-昭和13) 本名川村太一。1897年に名跡襲名。(5)5世(1888-1957・明治21-昭和32) 4世の子。本名川村千臣。関西で活躍。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「瀬川如皐」の意味・わかりやすい解説

瀬川如皐
せがわじょこう

歌舞伎(かぶき)作者。5世まである。

古井戸秀夫]

初世

(1739―94)振付の市山七十郎(しちじゅうろう)の長男で、名女方(おんながた)3世瀬川菊之丞(きくのじょう)の実兄。初め瀬川乙女という女方であったが、1784年(天明4)俳名の如皐を筆名として作者となる。菊之丞一座の座付作者として、おもに浄瑠璃(じょうるり)の作詞を担当、富本『名酒盛色の中汲(なさけざかりいろのなかくみ)』などを書いた。

[古井戸秀夫]

2世

(1757―1833)初世河竹新七門下の河竹文次が3世菊之丞付きの作者となって1801年(享和1)に襲名。化政(かせい)期(1804~30)の変化(へんげ)舞踊の担い手として活躍、晩年は5世菊之丞などの顧問として劇界に重きをなした。代表作に『角兵衛(かくべえ)』『三社祭(さんじゃまつり)』などがある。

[古井戸秀夫]

3世

(1806―81)戯作者(げさくしゃ)として修業をしたのち5世鶴屋南北に入門し、歌舞伎作者となる。1850年(嘉永3)にしばらく中絶していた瀬川如皐の名を継ぐ。『東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)(佐倉義民伝)』『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)(切られ与三(よさ))』で筆名を不朽のものにするが、晩年はライバルの河竹黙阿弥(もくあみ)に押され不遇のうちに終わる。名跡は4世(1857―1938)、5世(1888―1957)まである。

[古井戸秀夫]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「瀬川如皐」の解説

瀬川如皐
せがわじょこう

歌舞伎作者。江戸後期~昭和期に5世を数えるが3世までが著名。初世(1739~94)は大坂の振付師市山七十郎の子。俳優から作者に転じ,天明・寛政期の江戸で主として実弟3世瀬川菊之丞一座の作者を勤めた。2世(1757~1833)は初世河竹新七の門弟。1801年(享和元)如皐を継いで立作者となる。変化(へんげ)舞踊の作詞にすぐれた。3世(1806~81)は幕末期の名作者。幼名六三郎。前名絞吉平(しぼりきちべい),3世姥尉輔(うばじょうすけ)など。5世鶴屋南北の門弟。48年(嘉永元)立作者となり,50年如皐を襲名。4世市川小団次と提携して「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」などの名作をうんだが,やがてライバルの河竹黙阿弥に押され,明治期以後は時流にはずれた。

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