日本大百科全書(ニッポニカ) 「舞踊」の意味・わかりやすい解説
舞踊
ぶよう
dance 英語
danse フランス語
Tanz ドイツ語
身体のリズミカルな動作により感情や意思、情景や状況などを表現する芸術。舞踊という日本語は「舞(まい)」と「踊り」の合成語として明治時代につくられたもので、英語のdance、フランス語のdanse、ドイツ語のTanzに相当する。これはサンスクリット語のtanha(「生の欲望」の意)を語源とし、ヒンドゥー・クシ、カフカスの両山脈を越えてエジプトに入り、tansaからチュートン系の言語tanzaとなった。いずれも、行為し、動き、生き、喜悦して踊る欲望をさすことばである。日本では類似したことばに「舞踏」があり、一般的には明治以降に使われるようになり、鹿鳴館(ろくめいかん)の舞踏会のように社交ダンスを意味した。また、1960年代に土方巽(ひじかたたつみ)が創始した前衛舞踊も「舞踏」の語を用い、butohとして海外にも知られるようになった。「踏」という語は舞踊史上あまり用いられないが、上代の踏歌(とうか)にもみられるように、「踏む」という行為は大地との直接的な関係を示し、「返閇(へんばい)を踏む」というように鎮魂や招魂のための動作であり、舞踊を構成する要素の一つである。
[市川 雅・國吉和子]
舞踊の定義
古代ギリシアの哲学者アリストテレスはその著『詩学』のなかで、「舞踊とは身体的形態のリズムによって性格と情緒と行為を模倣するもの」と定義しているが、これは今日でも変わらない。ただし、性格や行為を強調した舞踊は劇的舞踊になり、情緒を強調した舞踊は純粋舞踊になる傾向がある。この二つの流れは舞踊史のなかで対立し、あるいは絡み合って存在している。たとえば、フランス出身の振付家ノベールはバレエ・ダクション(劇的バレエ)を主張し、ロシア出身の振付家バランチンは純粋舞踊を唱えた。この二つの流れを、E・グロッセは体操的舞踊と模擬的舞踊に分け、C・ザックスは非象徴的舞踊と象徴的舞踊とに分けている。また、音楽美学者E・ハンスリックは「舞踊とは動きそのものであって、なにものも表現しない」と純粋舞踊を擁護し、舞踊美学者F・ティスは「舞踊は形式と可視線だけでなく、意味と概念をもっている」といい、抽象的な形式のなかに象徴性を認める発言をしている。美学者S・K・ランガーは「舞踊とは身ぶりの切れ目のない織物によって目に見えるさまざまな力の世界を創造するもの」といい、舞踊は互いに作用するいろいろな力の表現であり、ダイナミックな仮象であると定義している。この説は舞踊を自立した意味の体系とみなし、純粋舞踊と劇的舞踊を同一の視点からとらえた優れた見解といえる。ドイツの哲学者ニーチェはその著『悲劇の誕生』のなかで、「舞踊とはディオニソス的なもののアポロン的完成」と定義し、フランスの詩人バレリーは舞踊とは「変身の行為そのもの」と述べている。
[市川 雅・國吉和子]
舞踊の起源と歴史
舞踊する人々の姿は、世界最古の芸術といわれる旧石器時代の西サハラの壁画などにすでに描かれている。舞踊は原始宗教の儀式から発生したといわれ、自然の猛威、死や飢餓などの災厄を乗り切るための祈願の儀式のなかから生まれた。神との一体的な恍惚(こうこつ)を目ざすために旋回舞踊が、災厄の基である悪魔を祓(はら)うために大地を踏む舞踊が、天界の神に近づくために跳躍する舞踊が行われた。
やがて舞踊は宗教から遠ざかるにつれて、民衆娯楽としての踊る舞踊と鑑賞する舞踊とに分化していく。ルネサンス期に生まれたバレエも、最初は貴族自らが踊り手で、まだ参加する者と鑑賞する側とに分かれていなかった。バレエは結婚式の祝宴の形式として始まったが、その宴会芸「ディベルティスマン」と若い主役の男女2人の踊り「グラン・パ・ド・ドゥ」の要素は、19世紀末の古典バレエ『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』などに色濃く残っている。20世紀に入り、ディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)が古典バレエのメルヒェン的世界を否定し、荒唐無稽(こうとうむけい)な展開と装飾的な構成を排して、舞踊のモダニズムといわれる作品を次々と上演したが、その代表的振付家はフォーキンであった。同時代に同じく古典バレエを否定し、新しい舞踊を開拓した人にアメリカ出身のダンカンがいるが、彼女ははだしに薄い衣装を着けただけで、型にとらわれず自由に踊った。この思想は1920~1930年代に開花し、ドイツではラバン、ウィグマンらの表現主義が生まれ、アメリカではグレアムのモダン・ダンスが誕生した。ともに内面的な感情表現に主眼を置いたものである。
こうした表現的舞踊に対して、1950年代にアメリカではカニンガムが登場し、身体の動きそのものを追求する抽象的作品を発表した。その門下からブラウンTrisha Brown(1936―2017)、サープTwyla Tharp(1941― )ら、ポスト・モダン・ダンスとよばれる作家たちが輩出し、新しい旋風を巻き起こした。一方、ドイツでは1970年代に、バウシュを筆頭にタンツ・テアターとよばれる表現的な舞踊が再興し、世界的な脚光を浴びた。日本でも同時期に土方巽による「暗黒舞踏」が誕生し、従来の舞踊に対する考え方を大きく変える動きが生まれていた。このように1960年代から顕著になった舞踊概念の見直しの世界的な傾向は、1980年代のフランス、ベルギーにもヌーベル・ダンスというニュー・ウェーブをもたらすことになった。そのほか、アクロバティックな動きを特徴とするフィジカル・シアターも20世紀末の現代ダンスに指摘できる新しい傾向のダンスである。
[市川 雅・國吉和子]
西洋舞踊と東洋舞踊
西洋舞踊はモダン・ダンスであってもバレエを母体にし、バレエの形式によって決定づけられており、基本的にはアン・ドゥオールといい、股(こ)関節が外に開く外輪(そとわ)の脚部と胸のあたりに重心があることに特徴がある。そのため脚部の表現、ステップの種類と跳躍が多くなる。逆に東洋舞踊は、腰を落とし重心を低くし、膝(ひざ)を軽く緩めていることが多い。神楽(かぐら)や歌舞伎(かぶき)舞踊、東南アジアの舞踊のほとんどは、重心を低くし、手の表現に重点を置いている。スペインのフラメンコなども、腰を低くし跳躍しない点からみて東洋の舞踊といえる。これは狩猟・騎馬民族と農耕民族の身体的相違とも考えられる。
西洋舞踊と東洋舞踊のもう一つの大きな相違は、東洋舞踊ではその多くが、たとえ輪舞でも手を取り合うことがない点である。日本の盆踊り、インド舞踊、バリ島の舞踊、フラメンコなど手をつないで踊ることはない。一方、バルカン半島のコロ、ヨーロッパのフォーク・ダンスのほとんどは、手を取り合って踊る。接触舞踊と無接触舞踊という角度から、西洋と東洋の舞踊を分けることも可能である。
[市川 雅・國吉和子]
『郡司正勝著『をどりの美学』(1957・演劇出版社)』▽『C・ザックス著、小倉重夫訳『世界舞踊史』(1972・音楽之友社)』▽『J・G・ノヴェール著、小倉重夫訳『舞踊とバレエについての手紙』(1974・冨山房)』▽『石福恒雄著『舞踊の歴史』(1974・紀伊國屋書店)』▽『A・ハスケル著、三省堂編修所訳『舞踊の歴史』(1974・三省堂)』▽『M・N・ドウブラー著、松本千代栄訳『舞踊学原論』(1980・大修館書店)』▽『M・ヴォージン著、市川雅訳『神聖舞踏』(1981・平凡社)』▽『市川雅著『舞踊のコスモロジー』(1983・勁草書房)』▽『蘆原英了著『舞踊と身体』(1986・新宿書房)』▽『前田允著『ヌーヴェルダンス横断』(1995・新書館)』▽『市川雅著『ダンスの20世紀』(1995・新書館)』▽『海野弘著『モダンダンスの歴史』(1999・新書館)』▽『市川雅著、國吉和子編『見ることの距離――ダンスの軌跡1962~1996』(2000・新書館)』▽『ジェラルド・ジョナス著、田中祥子・山口順子訳『世界のダンス――民族の踊り、その歴史と文化』(2000・大修館書店)』▽『邦正美著『舞踊の文化史』(岩波新書)』