中村座(読み)ナカムラザ

デジタル大辞泉 「中村座」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐ざ【中村座】

歌舞伎劇場。江戸三座の一。寛永元年(1624)初世猿若(中村)勘三郎が江戸中橋に創立。禰宜ねぎ町・さかい町・猿若町と移転し、明治9年(1876)休座。のち何度か再興したが長続きせず、同26年に廃座。初期には猿若座、末期には都座・猿若座・鳥越座などと称した。

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精選版 日本国語大辞典 「中村座」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐ざ【中村座】

歌舞伎劇場の名。江戸三座の一つ。初世猿若勘三郎が寛永元年(一六二四)に設立した猿若座を改称したもの。三世一説二世)勘三郎が猿若姓を本姓中村改めたことによる。
※談義本・根無草(1763‐69)後「抑芝居のさかんなる、二丁町の賑々敷(にぎにぎしき)、中村座・市村座

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改訂新版 世界大百科事典 「中村座」の意味・わかりやすい解説

中村座 (なかむらざ)

歌舞伎の劇場。江戸三座の一つ。櫓紋は,最初は舞鶴,のちに隅切角に銀杏となった。享保10年(1725)書き上げの《江戸三芝居由緒書》によれば,初世中村(猿若)勘三郎が1624年(寛永1)に中橋で猿若座の名で興行を始め,32年ごろには禰宜町で興行,51年(慶安4)に堺町に移転したと記すが,客観的裏付けはない。しかし51年には江戸城に参入した記録が残り,万治年間(1658-61)には堺町で興行している。寛文・延宝(1661-81)には鶴屋勘三郎座とも呼ばれた。その後,堺町の興行は1841年(天保12)まで続き,代々中村家の血縁が勘三郎の名で座元を世襲し,江戸でもっとも権威ある劇場として認められていた。

 元禄期(1688-1704)には,《参会名護屋》(1697),《源平雷(なるかみ)伝記》(1698)などその時代の代表作を上演した。1793年(寛政5)11世中村勘三郎の時代,経営不振のため仮櫓の都座に興行を譲ったが,97年11月《会稽櫓錦木(かいけいこきようのにしきぎ)》で再開し,大当りをとった。文化・文政期(1804-30)は鶴屋南北の代表作《東海道四谷怪談》(1825)や絶筆の《金幣猿嶋郡(きんのざいさるしまだいり)》(1829)などを上演している。1841年(天保12)出火,それをきっかけに浅草聖天町へ替地を命ぜられる。これは,水野忠邦の都市消費生活の徹底した抑圧を目的とする天保改革の一環であった。猿若町と名付けられたその地の1丁目に劇場を建て,42年10月,《金竜山誓礎》をもって開場,以後,場所は変わったが,明治中期まで興行を続けた。幕末から経営不振に苦しみ,明治に入り近代化への変動の中で,ついに13世中村勘三郎は,75年,座元を3世中村仲蔵に譲り,ここに江戸歌舞伎を通じて君臨した座元中村勘三郎の名は終焉を迎えた。仲蔵も数年で経営から手をひき,その後12世守田勘弥をはじめ座元も転々とし,劇場名も猿若座と改まるなどするが,84年に浅草の新鳥越町に移り,93年1月22日火災に遭い,ついに再興ならず,廃座となった。いわゆる江戸三座の筆頭として江戸時代全般を通じて江戸の歌舞伎界をリードし続けた意義は大きい。
江戸三座
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百科事典マイペディア 「中村座」の意味・わかりやすい解説

中村座【なかむらざ】

歌舞伎劇場。江戸三座の一つ。江戸の劇場のうち最も古く,1624年猿若勘三郎(初世中村勘三郎)が猿若座と称して中橋広小路に創設,のち中村座と改称。座元は代々の勘三郎。禰宜(ねぎ)町,堺町を経て1842年浅草猿若町へ移り,明治になって浅草鳥越に移転したが,1893年の火災で廃座となった。
→関連項目越後獅子勘亭流黒髪三社祭(邦楽)三世相錦繍文章中村勘三郎中村屋

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中村座」の解説

中村座
なかむらざ

江戸の歌舞伎劇場。1725年(享保10)の書上(かきあげ)によると,1624年(寛永元)に猿若勘三郎が猿若座を創設して興行を始めたとするが,年代に疑問がある。51年(慶安4)には一座を率いて江戸城へ参入。52年(承応元)頃の若衆歌舞伎禁止後も存続し,江戸歌舞伎の筆頭の座と目され,堺町で興行を続けた。3世(2世とも)勘三郎のとき姓を猿若から中村に改め,座名は中村座と猿若座を併用した。1793年(寛政5)秋から97年の秋まで休座し,都(みやこ)座がかわって興行。1842年(天保13)猿若町1丁目へ移転。75年(明治8)3世中村仲蔵へ興行権が委譲され,さらに都座・猿若座・中村座・鳥越座と名称をかえ,93年に焼失して廃座となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中村座」の意味・わかりやすい解説

中村座
なかむらざ

歌舞伎劇場の名。江戸三座のうち最も古く由緒をもつ劇場。1世猿若勘三郎が寛永1 (1624) 年2月江戸中橋に劇場を建設して猿若座と称したのが最初で,のち本姓の中村を取って中村座と称した。同9年禰宜 (ねぎ) 町に,次いで慶安4 (51) 年上堺町 (堺町) に移って栄えたが,天保 13 (1842) 年天保の改革で3座ともに猿若町に移転を命じられた。明治以後は衰運に傾き,都座,猿若座と改称,1884年浅草鳥越に移って興行したが,93年の焼失後再建できず,かつ 95年に 13世中村勘三郎が没して中村座の名は名実ともに消滅した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「中村座」の解説

中村座
なかむらざ

江戸の歌舞伎劇場。幕府公許の江戸三座の最古
1624年猿若勘三郎(初代中村勘三郎)により中橋南地(現在の日本橋付近)に猿若座が創設され,のち中村座と呼ばれた。1893年焼失。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村座」の意味・わかりやすい解説

中村座
なかむらざ

江戸三座

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世界大百科事典(旧版)内の中村座の言及

【江戸三座】より

…江戸で公許された中村座市村座,森田座(のち守田座)の三芝居。元禄期(1688‐1704)には山村座を含め四座存在したが,1714年(正徳4),江島生島事件によって山村座が廃絶,以降明治に至るまで三座に限って興行が公認された。…

【歌舞伎】より

…舞踊の名手で人気の伯仲していた3世中村歌右衛門と3世坂東三津五郎との対抗が,変化舞踊の流行に拍車をかけた。
[黙阿弥と幕末]
 1841年(天保12)10月,堺町中村座と葺屋町市村座が焼失したのを契機として,芝居の取りつぶしが計画された。これは天保改革の一環であった。…

【劇場】より

…江戸では,すでに興行地化していた中橋南地(現在の日本橋通3丁目付近)や,葭(吉)原の遊里が歓楽地として栄えはじめた。1624年(寛永1)2月に,初世猿若(中村)勘三郎が中橋に歌舞伎常芝居猿若座(後の中村座)を創設した。常設の歌舞伎劇場のはじめである。…

【興行】より

… 江戸時代に入ると歌舞伎や人形浄瑠璃の興行は,江戸でも上方でも共通に幕府から興行権を与えられたもののみが行うことができるというきびしい仕組であった。江戸を例にすると宮地芝居を別として,歌舞伎では1714年(正徳4)9月以降幕末まで中村座の中村勘三郎,市村座の市村羽左衛門,森田座の森田勘弥の3人の座元に限って,歌舞伎を興行する権利が官許され,興行権の象徴である〈(やぐら)〉をあげることができた。この3座を〈江戸三座〉と呼んでいる。…

【寿狂言】より

…江戸の劇場の中村座市村座,森田座(守田座)に伝承された祝言儀礼的狂言のこと。家狂言ともいう。…

【猿若町】より

…現在の東京都台東区浅草6丁目に相当する。都市の消費経済の締付け政策をとった天保改革により,1841年(天保12)から42年にかけて,堺町の中村座,葺屋町の市村座,木挽町の河原崎座(森田座)の江戸三座が,江戸の市外地である浅草聖天町,小出信濃守の下屋敷跡へ移転を命じられた。その地が猿若町と名づけられ,1丁目に中村座と人形浄瑠璃の薩摩座が,2丁目に市村座と人形浄瑠璃の結城座(ゆうきざ)が,3丁目に河原崎座が建築され,明治初年まで,江戸の歓楽街として繁栄した。…

【中村勘三郎】より

…江戸中村座の座元,歌舞伎俳優。初世から3世までの経歴は,中村家の《家記》と称される書,享保10年(1725)書き上げの《江戸三芝居由緒書》など自己の家を語る粉飾の多い伝承によらざるをえず,検討を要するが,以下一応の通説を記す。…

※「中村座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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