満願寺跡(読み)まんがんじあと

日本歴史地名大系 「満願寺跡」の解説

満願寺跡
まんがんじあと

[現在地名]萩市大字堀内

指月しづき山の東麓、萩城二の丸内にあった。南に東園とうえん、北に宮崎みやざき八幡宮跡、東に道を隔てて三摩地さんまじ院跡がある。

真言宗仁和にんな寺末で、山号は伝法山、本尊千手観音であった。神亀年間(七二四―七二九)創建と伝え、もと安芸吉田よしだ(現広島県高田郡吉田町)にあった。天台宗で阿弥陀院と称したが、毛利元就の時真言宗に改め、毛利家の祈願所となった。天正年中(一五七三―九二)仁和寺の任助法親王が安芸の厳島いつくしま神社に参詣した際、当寺の住職玄仙が侍し、以来当寺の住職は代々仁和寺の門弟とされた。慶長一〇年(一六〇五)萩に移建され、以後防長両国の惣触頭となり、末寺八一ヵ寺を擁したという。また仁和寺内の一院を当寺の住職が兼務し、ためにその別院ともされた。

満願寺跡
まんがんじあと

[現在地名]吉田町吉田

郡山こおりやま城三の丸跡の下方難波なんば谷の谷頭右方に広大な寺域を残す。「国郡志下調書出帳」に「毛利家御祈願所の由の処、長州え御引移の処堂舎悉く廃壊、先年は大なる池御座候て、蓮・燕子花など有之候処、当時は蓮抔は無御座候、燕子花抔残居申候、鳧鐘は広島正清院に有之由」とあり、現在も寺跡北隅に東西二つの蓮池とよぶ池が残るほか、三〇〇メートル下の壇に仁王門跡が残る。寺は広島城下より、さらにはぎ(跡地は現山口県萩市)内に移転、現在は山口県防府ほうふ市にある。

由緒は不詳であるが、毛利氏郡山築城の当初頃からあったともいわれ、大永三年(一五二三)毛利元就の本家相続が決り、郡山入城に際してその日時を満願寺の法印栄秀が卜している(「満願寺栄秀平佐元賢連署状」毛利家文書)

満願寺跡
まんがんじあと

[現在地名]びわ町弓削 満願寺

弓削ゆげ集落の西、満願寺にあった奈良時代から平安時代にかけての寺院。寺跡からは奈良・平安時代の瓦が出土している。また寺跡の東にある弓削神社境内には塔心礎がみられ、同社を中心とした奥屋敷おくやしき・北屋敷・西屋敷・もりうちの二町四方は条里の方向と異なる地割を示しており、満願寺と森ノ内からは奈良時代の複弁五葉蓮華文軒丸瓦が出土している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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