広島城下(読み)ひろしまじようか

日本歴史地名大系 「広島城下」の解説

広島城下
ひろしまじようか

近世初頭、毛利輝元によって太田おおた川河口に築かれた広島城を中心として発展した。城下の建設は、築城工事と併行して普請奉行二宮就辰のもと出雲出身の平田屋惣右衛門を参画させ、京の町に似せた町割をもって実施した。すなわち、城郭の南方にほぼ南北に通ずる竪町の白神しらかみ一―五丁目(のち六丁目まで)の通り筋を基線とし、それに直交する東西方向の横町を設けることを基本とした。城下町の運河として作られた平田屋ひらたや川・西堂せいとう川の二堀川と枝状に流れる太田川支流が、平時には水運、戦時には城濠の役割を果すように考慮された。広島城下は「芸藩通志」によれば広島府と総称され、武家屋敷町と七〇の町人町・一五の村(「知新集」は一六)、八つの新開が記される。武家屋敷町は原則的には町奉行支配下にはなく、それぞれ所属の組の頭ないしは各種奉行の支配下にあり、町奉行の管轄は町人町と村および新開であった。

〔毛利氏時代〕

毛利氏時代の広島城下絵図によると、城郭とその周辺の武家屋敷が広大な面積にわたり、「マチ」と記される地域は、城郭南部もしくは南西部、すなわち元和五年広島城下絵図による町名で記せばほん町一―五丁目・細工さいく町・たうふや町・紙屋かみや町・よこ町・しほや町・尾道おのみち町・革屋かわや町・西魚屋にしうおや町・中島本なかじまほん町・湯屋ゆや町・天神てんじん町・材木ざいもく町・本柳もとやなぎ町・木挽こびき町の辺りまでと、かべや町・西土手にしどて町・地方じかた町辺りに相当する。武家屋敷は平田屋川以東およびはく島の全部、佐東さとう楠木くすのき(現西区)の一部に描かれている。しかし毛利氏時代の町名・町数はほとんど明らかでない。

〔福島氏時代〕

福島正則はその商業重視政策の現れとして、城北を通っていた山陽道(西国街道)を城南に引入れ、町屋敷の間を東西に走らせることにし、武家屋敷を縮小させて町屋敷を拡大した。山陽道付替えの年時は不明であるが、慶長八年(一六〇三)星野越後守・小河若狭守を奉行に、武家屋敷地を町屋敷とした事業と関係したとも考えられる。このとき毛利氏の家臣熊谷玄蕃允屋敷跡に、城下の西引御堂にしひきみどう町のえびす社を移して胡町と名付け、城郭の南、山陽道北の筋辺りを市の町とした。これは当時安南あなん温品ぬくしな(現東区)から同地に移住した商人銭屋又兵衛の願出によるもので、胡町の東を東引御堂町と名付け、両町でそれぞれ月に四日ずつの市立が許され、役者清七の歌舞伎興行もあってその辺りは賑ったと伝える(知新集)。またこの福島氏の時代には京橋きようばし川の東には吉田よしだ町、山陽道沿いに京橋町や比治山ひじやま町・やなぎ町・東土手ひがしどて町が、猿猴えんこう川の東部の山陽道沿いに猿猴橋えんこうばし町が開かれ、京橋川西には前記胡・西引御堂二町のほか、山陽道沿いの橋本はしもと石見屋いわみや山口やまぐち銀山かなやまちぎや堀川ほりかわの各町が、平田屋川の西側では山陽道沿いに平田屋・播磨屋はりまやの両町とその付近に東魚屋ひがしうおや鉄砲屋てつぽうやたて研屋とぎやの各町がつくられて、それ以前の町に続き、小屋こや(天満川)東側の山陽道沿いには塚本つかもと町・さかい町一―四丁目ができ、堺町より北に分岐する雲石路に沿って猫屋ねこや町・十日市とおかいち町・西引御堂町・てら町が、猫屋町東には鍛冶屋かじや町ができた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の広島城下の言及

【広島[市]】より

…市中心部には世界遺産に登録された〈原爆ドーム〉を含む平和記念公園のほか,原形復元された表御門のある広島城跡(史),旧藩主浅野氏の庭園縮景園(名),市内を展望できる比治山公園などがある。【藤原 健蔵】
[広島城下]
 1589年(天正17)4月から毛利輝元の島普請とよばれる広島城の建設が行われ,以後毛利,福島,浅野の各大名の城下町として発展した。毛利時代は,枝状に分かれた太田川本・支流と,平田屋川・西堂川(せいとうがわ)両運河に堤防を築き,大規模な城郭を中心として周辺に広く武家屋敷を配置し,町人町は城郭の南西に区画したが,皮屋・材木両町のほかは町名も明らかでない。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」