湯川村(読み)ゆがわむら

日本歴史地名大系 「湯川村」の解説

湯川村
ゆがわむら

[現在地名]茅野市北山きたやま 湯川

柏原かしわばら村の南にあり、大門だいもん道に沿う。村の中ほどから東に蓼科たてしなへの道が分岐している。東は蓼科高原から北八ヶ岳のよこ(二四七二・五メートル)にわたる広大な山林原野にまたがり、北からの音無おとなし川と東からのたき川が西部で合流し、かみ川となっている。

集落の北部台地には縄文時代のうえだん遺跡がある。八ヶ岳山麓では縄文後・晩期の代表的遺跡として知られる。嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「湯川ニ子ノ神」とあるのが初見。

正平六年(一三五一)正月二日、信濃国市河十郎左衛門尉が「湯河宿」で諏訪忠頼の軍に馳せ参じている(市河文書)。永禄九年(一五六六)八月、金子文書には「御射山祭之時大祝殿宿之事、任旧規六ケ所之郷人可造営之由、被仰出者也、仍如件」として湯川之郷ほか五郷の名が記されている。

湯川村
ゆかわむら

[現在地名]清水町湯川

的場まとば村の北西、狩野かの川の右岸に位置し、北は堂庭どうにわ村、狩野川を挟んで西は徳倉とくら村。「ゆがわ」ともいう。字つじまえには湯川砦と通称される戦国大名北条氏の支城跡がある。伏見ふしみ泉頭いずみがしら城の城番桜井氏が大坂の陣後に軍功を上申した年不詳九月二五日の桜井武兵衛武功覚書(桜井文書)によると、北条氏と武田氏が争った天正九年(一五八一)の戸倉合戦の際、「湯川表ニ而かけ合」のあったことが記されている。同年と推定される一一月一五日の北条氏直書状(二見初右衛門氏所蔵文書)には「向彼地押詰築地利候」とみえ、北条氏は徳倉城の前線に新しい砦を築いている。

湯川村
ゆかわむら

[現在地名]伊東市湯川・湯川一―四丁目

北は宇佐美うさみ村、東は伊東湾に面し、海沿い近くを東浦ひがしうら路が通る。北条氏所領役帳によれば、北条家臣御馬廻衆勝部小三郎の所領として八〇貫文「豆州湯川松原」とある。また現中伊豆町徳永とくながの山神社の天正二年(一五七四)上梁銘に「湯河松原」とみえる(増訂豆州志稿)。同じような漁村の南隣松原まつばら村とは集落も地続きで、もとは一村であったともいう(同書)

初め幕府領、寛文三年(一六六三)相模小田原藩領、天明五年(一七八五)幕府領と石見浜田藩領、寛政四年(一七九二)幕府領、文化八年(一八一一)旗本大久保領となり幕末に至る(韮山町史)。元禄郷帳では高二〇一石余。

湯川村
ゆかわむら

[現在地名]西吉野村大字湯川

八幡はちまん(旧名湯ノ川)流域、大堀おおぼり村の北に立地。古田ふるた郷のうち。慶長郷帳では村高三四二・二五石、幕府領(代官楢村監物)延宝検地により村高は増加するが、元禄四年(一六九一)赤松あかまつ村が分離したため、元禄郷帳では一九五・七六五石となっている。天保郷帳記載の村高四〇六・四八二石には赤松村の村高が含まれている。

宝永六年(一七〇九)湯川村は田高の多い赤松村より湯川村が高免であったことに不満をもち、同年九月一五日付で嘆願書を提出、若干の是正はあったが、享保二〇年(一七三五)、定免法に切替えを契機に赤松村と同免にするよう、再び嘆願を行っている(「乍恐奉願上口上書」湯川の田中家文書)

湯川村
ゆがわむら

面積:一六・三三平方キロ

郡東部に位置し、東は河東かわひがし町、西は阿賀川を隔てて会津坂下あいづばんげ町、南は会津若松市、北は日橋につぱし川を隔てて耶麻郡塩川しおかわ町に接する。会津盆地のほぼ中央部を占め、東西四・二キロ、南北五・六キロ、面積は県内市町村のなかで二番目に小さい。標高は一八〇メートル前後でほとんど平坦。農耕地は村面積の七二パーセントを占め、農家数は全戸の七五パーセントにあたり、大部分が第二種兼業農家である。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」には当村と河東町は河沼庄として記され、郷名は未詳としている。

湯川村
ゆがわむら

[現在地名]田上町湯川

田上村の北、信濃川と新津丘陵との間が最も狭まる丘陵西側に位置し、北は鎌倉かまくら新田(現中蒲原郡小須戸町)、東は菅沢すげのさわ(現五泉市)。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)には黒井弥七郎分として「金津之保之内遊川」とみえる。

慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)には二九〇石五斗余とみえ、同一〇年の給知方村々高目録(同資料)には毛付二四四石六斗余・荒一九七石一斗余とある。

湯川村
ゆかわむら

[現在地名]高野町湯川

花坂はなざか村の南、天狗てんぐ(九六七・八メートル)東側に位置し、集落はほぼ西流する湯子ゆこ川上流域に点在する。西は新城しんじよう(現かつらぎ町)、南は現花園はなぞの村域の諸村に接する。「続風土記」は里人の伝承として「弘法大師高野山開基の頃まて此地に温泉あり、今下村と小名小森との間に湯屋谷といふ谷あり、古温泉の跡といふ、湯川の名これより起る」と記す。

湯川村
ゆがわむら

[現在地名]小倉南区湯川一―五丁目・湯川新町ゆがわしんまち一―四丁目・湯川・安部山あべやま葛原くずはら一丁目・上葛原かみくずはら一―二丁目・長野ながの一―二丁目・蜷田若園になたわかぞの二―三丁目、小倉北区きりおか二―三丁目

葛原村の西、足立あだち山南麓にある。元和八年人畜改帳に湯川町とみえ、高二三四石余で家数四三、人数一一三(うち百姓九・名子一二など)、牛一二・馬六。元和一〇年(一六二四)「湯川町、牛馬ノ新市」につき七ヵ所に制札が立てられた(永青文庫蔵「万覚書」同年三月一五日条)。郷村高帳では高八〇八石余、うち新田高三二二石余。

湯川村
ゆのかわむら

明治三五年(一九〇二)から昭和一一年(一九三六)までの村。明治三五年四月に亀田かめだ郡上湯川村・下湯川村・亀尾かめお村の三ヵ村が合併し、二級町村制を施行して湯川村となった。旧村名を継承した三大字を編成し、村役場を大字下湯川村に置いた。成立時の戸口は五九〇戸・三千四四人。明治一八年に福井県出身の井戸掘業者石川藤助が高温で湯量豊富な湯元を新たに掘当て、翌年から新湯元を名乗って湯川温泉の営業を開始。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「湯川村」の意味・わかりやすい解説

湯川〔村〕
ゆがわ

福島県北西部,会津盆地中部にある村。 1957年笈川 (おいかわ) ,勝常 (しょうじょう) の2村が合体して成立。中心地区の笈川は旧米沢街道に沿う街村。北に日橋川,西に阿賀川 (大川) ,中央に湯川が流れ,しばしば水害に襲われたが,阿賀川の捷水路の開削により,肥沃な水田地帯に変った。徳一大師開基の古刹勝常寺があり,室町時代初期建立の会津中央薬師堂と本尊薬師如来など 12体の貞観仏は重要文化財に指定されている。北東部を JR磐越西線,国道 121号線,南西部を国道 49号線が通る。面積 16.37km2。人口 3081(2020)。

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