深田村(読み)ふかだむら

日本歴史地名大系 「深田村」の解説

深田村
ふかだむら

[現在地名]深田村 古町ふるまちじよう小枝こえだ向町むかいまち下里したさと上里うえさと内山うちやま植深田うえふかだ庄屋しようや永峯ながみね新深田しんふかだ草津山そうづやま鷺巣さぎす加茂かも荒茂あらも

人吉ひとよし盆地のほぼ中央にあり、須恵すえ(現須恵村)の西に接し、集落は球磨川の右岸に形成される。北東は山岳部で晴山はるやま村・平川ひらこう(現相良村)に、南は球磨川を隔てて免田めんだ(現免田町)に接する。古くは永吉ながよし庄に属し、建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に「一所 同郡同庄之内深田之村之内田地五十町三百石 五十貫」とある。応永三四年(一四二七)四月七日の平河式部給分坪付(同文書)に「永吉庄深田内 一、小高野妙本か門 以上水田八反 畠地八反」がみえるほか、年未詳の免田坪付帳(免田文書)によれば、「ふか田之村下七十五丁之内」に「御公領泉丸之門」として水田八反余・畠屋敷三反余がみえるなど、耕地が門として編成されていたことが知られる。当村は平河師高の本拠地に比定され、永享一〇年(一四三八)三月吉日の免田相伝由緒書(同文書)によれば、「徳長宝円つか面田之さかい之事」に「深田のくるすの城のはなと、わたの水のすゝかのもりニふミ候也」と城のことがみえる。

深田村
ふかたむら

[現在地名]臼杵市深田

望月もちづき村の西、臼杵川支流の深田川沿いに位置する。南は中尾なかお村。戦国時代末期と推定される年不詳一二月二〇日の満月寺増舜書状(皇学館大学蔵)の包紙上書に深田とみえる。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳(渡辺家文書)によると高四三六石余、うち田方三一五石余・畑方一二〇石余、田畑数七一八筆、名請人は新左衛門など七〇人。同一一年の惣御高頭御帳では望月村組に属し同高、うち一二四石余は稲葉通孝領。また村役人に源左衛門・七郎・新左衛門・善兵衛を記す。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では左津留村組に所属、のち野村組に属した(万用集)

深田村
ふかたむら

[現在地名]三重町本城ほんじよう 深田

中玉田なかたまだ村の南、北東流する玉田川右岸にある。近世を通じ臼杵藩領。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ、高三五六石余、上ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高三五四石余・出来高二一七石余、田方二八一石余・畑方二九〇石余。正保郷帳では三重之庄に属した。旧高旧領取調帳では高五八六石余。江戸時代後期の免は三ツ九分(「雑録」臼杵藩政史料)。文政六年(一八二三)には上玉田組・下玉田組に分属した(万用集)。文化七年(一八一〇)たにに溜池が築造された(「留書」多田家文書)。明治八年(一八七五)高寺たかてら村と合併、本城村となる。

深田村
ふかたむら

[現在地名]加賀市深田町・宮町みやまち

橋立はしたて村の南、小塩おしお川上流を村域とし、東部に出村の宮村がある。もと深谷と称したという。中世には京都北野社領福田ふくだ庄のうち。地内称名しようみよう寺は文明三年(一四七一)深谷村の館野正住が蓮如に帰依して覚善と号して創建、大永(一五二一―二八)の頃村方は退転し深谷を改めて深田村としたと伝える(天保由緒書)。深谷の覚善が菅生すごうの願生と並び称される蓮如の弟子であることは「蓮如上人御一代聞書」等によって確認できるが、「伺事記録」延徳二年(一四九〇)九月三日条に室町幕府奉行人の布施梅千代丸が「加賀国深田村」等一〇ヵ所について将軍の安堵御判を申請し認められたとあるので、深田への改称は遅くとも一五世紀末とみられる。

深田村
ふけだむら

[現在地名]粉河町深田

東西に走る大和街道と、南流する松井まつい川の交差する地点に位置し、北は長田中ながたなか村、東は粉河・松井の両村、南はしま村、西は別所べつしよ村に接する。「続風土記」は「村の名義名の如くなるへし、然れとも今の地形には応せす、古今の異なるあるならん、天野神社の告門詞の中に赤穂村の布気田ふけたといふは即此地と思はる、されは深田の名最旧し」とある。明徳四年(一三九三)作製と思われる井上庄絵図(随心院蔵)に「深田河」「フケ田」の書込みがみえる。

深田村
ふかだむら

[現在地名]久慈市山根町やまねちよう 深田

小久慈こくじ村の南西、長内おさない川の支流深田沢と馬渡まわたり川流域に位置する。近世を通じて盛岡藩領野田のだ通に属する。正保国絵図に村名がみえ、高一六石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入金目高三七石余、七ヵ年平均の免は一〇〇石につき六三匁で「御物成諸役共」とある。元禄十郡郷帳による〆高は畑方一六四石余のみで、当村へ木売内きうりない村・細野ほその村・端神はしかみ村・上戸鎖かみとくさり村が入るとある。「邦内郷村志」では蔵入高四五石余のみ。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数六二、うち本村一八、枝村は鬼平おにひら一一・おたせ(小田瀬)六・横倉よこくら一六・高根たかね一一。「管轄地誌」では田一反余・畑一一八町余、家数六四・人数三七〇、牛二七・馬九〇。

深田村
ふかだむら

[現在地名]横須賀市深田台ふかだだい米が浜通よねがはまどおり一―二丁目・若松わかまつ町一―三丁目・日の出ひので町一―三丁目・田戸台たどだいうわ町一―三丁目・汐入しおいり町三丁目

北の横須賀村と南の公郷くごう村に挟まれた海沿いの小村。村内に佐野さの村の飛地があり、中里なかざと村内に当村の飛地をもつ。小田原衆所領役帳に小山三郎右衛門「廿四貫五百六十三文 深田」とあり、さらに「浦賀海賊致之間普請役御免但出銭着到ハ可為本役」とある。「風土記稿」は昔公郷村から分村したという。

正保国絵図に村名がある。天保初期の家数一九。明治九年(一八七六)の家数四三、人数二〇九、牛二、馬一、漁船六、人力車二、荷車一、当時の田二町余、畑六町八反余、山三町五反余。

深田村
ふかだむら

[現在地名]鴨方町深田・みどりヶおか

東は鴨方村、北は本庄ほんじよ村、南は口林くちばやし(現里庄町)、西は小坂西こさかにし村。鴨方往来が通る。元和二年(一六一六)の検地帳(佐藤文書)では田方三七町五反余・畑方一九町九反余、屋敷四二筆。寛永備中国絵図・正保郷帳ともに岡山藩領、高三六二石余。寛文一二年(一六七二)鴨方藩領となり(撮要録)、幕末に至る。貞享元年(一六八四)の信州様御分知御見合帳では高七二七石余、物成三〇五石余。元禄一四年(一七〇一)の岡山領浅口郡村々手鑑(唐井家旧蔵)では高六三五石余、直高六三八石余、うち田四七〇石余・三二町余、畑一六四石余・一九町余、家数一〇五。

深田村
ふかだむら

[現在地名]美濃加茂市深田町ふかたちよう一―三丁目、加茂郡坂祝さかほぎ酒倉深田さかぐらふかだ一―三丁目

太田おおた村の南西に接し、中山道筋にある。木曾川が東から南をえぐるように曲流し、加茂川は西から南の村境を流れて木曾川に合流する。加茂川を越す中山道の板橋を深田橋という。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では尾張藩領で高二六八石余。正保郷帳によれば畑方二五三石余・桑木高一五石余。明暦覚書によれば元和元年尾張藩領へ編入。概高は桑木・紙木高とも二六四石余で旱損所とする。慶安四年(一六五一)の男女一六二、馬一六。「尾張地方古義」は桑木・紙木高一五石余につき、代官方竪地帳には桑四九八束八分は二升取、紙木六束半は四升取、茶畑七反一畝余は石二斗盛で、計一八石七斗余とあるという。

深田村
ふかだむら

[現在地名]門前町深田

広瀬ひろせ村の東、はつヶ川支流栃木とちのき川下流の谷間の平地と山地に立地。正保郷帳では高一九七石余、田方八町八反余・畑方四町三反余。承応三年(一六五四)の村御印の高二〇一石余、免五ツ五歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二一五石余、免六ツ、小物成は山役一二一匁、鳥役一匁(出来)、漆役六匁・蝋役二匁(三箇国高物成帳)

深田村
ふかだむら

[現在地名]足助町白山しらやま

現主要地方道瀬戸―設楽線に沿う。東は安代あじろ村・大地沢おちざわ村、南は越田和こいだわ村、西は広見ひろみ村、北は久木ひさぎ村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。寛永一二年(一六三五)当時、旗本梶次郎兵衛知行地。

深田村
ふかだむら

面積:二一・〇四平方キロ

球磨郡のほぼ中央部にあり、村域南端部を球磨川が西流し、平地が広がる。東は須恵すえ村、南東は免田めんだ町、南西はにしき町、西と北は相良さがら村に接する。球磨川とその支流の銅山どうざん川・荒茂あらも川・木上きのえ溝に沿って集落が点在する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報