球磨郡(読み)くまぐん

日本歴史地名大系 「球磨郡」の解説

球磨郡
くまぐん

面積:一三二五・五三平方キロ(境界未定)
水上みずかみ村・湯前ゆのまえ町・多良木たらぎ町・岡原おかはる村・免田めんだ町・うえ村・にしき町・須恵すえ村・深田ふかだ村・五木いつき村・相良さがら村・山江やまえ村・球磨くま

熊本県の南東部にあり、北は八代郡いずみ村・東陽とうよう村の山地に接し、東は九州山脈の脊梁で宮崎県東臼杵ひがしうすき椎葉しいば村・同県児湯こゆ西米良にしめら村、南東は白髪しらが山系を隔てて宮崎県西諸県にしもろかた須木すき村・同県小林こばやし市・えびの市に、南は鹿児島県大口おおくち市、西は球磨川を挟んで葦北あしきた芦北あしきた町、球磨川下流で八代郡坂本さかもと村と接する。郡南部の中央に球磨川を挟んで人吉ひとよし市が展開し、球磨郡は人吉市によって上・中球磨と下球磨に二分される。郡の四周は九州山脈の高い峰々に囲まれ、上・中球磨では中央の盆地をほぼ東北から南西に流れる球磨川に沿って平野が開け、周囲の山地との間に百太郎ひやくたろう溝・幸野こうの溝・木上きのえ溝によって開田された微高地の水田が形成される。北側からは川辺かわべ川が球磨川にほとんど直角に流れ込み、この沿岸にもわずかな水田が展開する。このほか盆地には免田川・仁原にわら川・こさで川・山田やまだ川・むね川など大小無数の川が流れ込んで、沿岸に小規模な耕地を形成する。盆地の標高は川上の湯前町上里かみざとで一九〇メートル、川下の錦町で一一四メートルである。球磨川は球磨村一勝地いつしようちから下流は急流となる。

郡内の交通路は寛文五年(一六六五)に球磨川水路が開削されるまでは、尾根道か川沿いの道に限られた。主要な道路として八代古麓ふるふもと(現八代市)―肥後峠―人吉、佐敷さしき(現芦北町)つげ(同上)―一勝地―人吉、人吉―大畑おこば(現人吉市)加久藤かくとう(現えびの市)、人吉―免田―湯前―横谷よこだに、人吉―免田―久米くめ―湯前、人吉―柳瀬やなせ―深田―須恵―水上、人吉―四浦ようら―五木―大通おおとり峠などがあった。このうち佐敷―告―一勝地―人吉―大畑―加久藤の道は人吉までは参勤交代路で、日向路とよばれた。参勤交代には人吉―免田―湯前―横谷のコースも用いられた。現在は八代から球磨川に沿って国道二一九号が郡を横断し、南北に川辺川・万江まえ川に沿って県道が通る。国鉄肥薩線は八代から球磨川に沿って人吉に至り、これから大畑を経て鹿児島県姶良あいら吉松よしまつ町に向かう。かつてはこれが鹿児島本線であった。谷間を縫って進むためトンネルが多く、また大畑でのループ線で知られている。人吉から分岐した湯前線は球磨川に沿って盆地の真ん中を東進する。

〔原始・古代〕

旧石器時代の遺跡はまだ本格的に調査されていないが、球磨川右岸段丘の多良木町里城さとのじよう遺跡、山田川上流の山江村山田大丸藤やまだだいまるふじさこ遺跡から細石器が出土し、縄文早期に連なるものとみられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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