本城村(読み)ほんじようむら

日本歴史地名大系 「本城村」の解説

本城村
ほんじようむら

[現在地名]八幡西区本城一―五丁目・本城東ほんじようひがし一―六丁目・本城・御開おひらき一―五丁目・光貞台みつさだだい一―三丁目・力丸町りきまるまち貴船台きぶねだい星和町せいわまち友田ともだ一―三丁目・楠木くすのき二丁目・千代ちよさき一―三丁目・医生いせいおか大浦おおうら一―三丁目・丸尾町まるおまち折尾おりお二―三丁目・自由じゆうおかなど

金山かなやま(則松川)を隔てて陣原じんのはる村の北に位置する。西は浅川あさかわ村、塩屋しおや(現若松区)、北は川を隔てて二島ふたじま村・頓田とんだ(現同上)など。「続風土記拾遺」は集落として本村および戸下田とげた・御開の三ヵ所をあげる。うち北東部にあたる御開は延享―寛延年中(一七四四―五一)洞海どうかい湾の最奥部、江川の河口部を開作した地で、御開村として一村に扱われる場合もあった。「地理全誌」は当村と御開村を別村とし、当村集落として本村(坂・的場・九ノ坪・洲崎など)・戸下田・聖塚ひじりづか・力丸・大平おおひら碇地いかじ枕崎まくらざきなど一七ヵ所、御開村の集落として本村・碇地・高尾・相坂・倉ヵ鼻・枕崎の六ヵ所をあげる。文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写(麻生文書/筑前麻生文書)に「東西廿四浜新開七浜本庄塩浜」とみえ、当地には塩田があった。

本城村
ほんじようむら

[現在地名]串間市本城

南方みなみかた村の東に位置し、志布志しぶし湾に面する。本城川が流れ、その河口に開けるみなと(湊)地区は中世から栄えた港津で、戦国期の史料に櫛間くしま(福島)の湊、千野ちのの湊などと散見する(→櫛間・櫛間院。江戸中期までは本庄と記したものが多い。永和四年(一三七八)六月二日、野辺盛久は櫛間院領家方のうち「千野小河骨水田合壱町五段」を恩徳おんとく(現日南市)に寄進しているが(「野辺盛久寄進状写」野辺文書)、この「千野」は当地の千野とみられる。北郷忠相等三代日帳写(都城島津家文書)に、永禄七年(一五六四)三月一六日のこととして「本城向原ノ作散引時、本城衆新山ヘアケ候」とある。天正二年(一五七四)一月二九日、壱岐伊賀守は志布志(現鹿児島県志布志町)より櫛間の「湊」まで来り、二月二日には飫肥おびへ移動した(「壱岐賀州年代記」旧記雑録)。同五年六月一八日、伊東祐兵は櫛間攻撃の軍勢を発し、翌一九日未明に「湊村」を打破り放火した(日向記)。同年一二月伊東氏は島津氏に敗れ豊後に逃れたが、このとき祐兵の執事木脇越前守は、豊後に逃れる道をふさがれ、櫛間の「道場」に隠れていたという(同書)

本城村
ほんじようむら

[現在地名]垂水市本城

本城川の中・下流域の水田地帯と山城の本城跡から上野うえの台地に続く地域で、北は田神たがみ村・新御堂しんみどう村。垂水郷の穀倉地帯である。中世は下大隅郡(下大隅)のうちにあった。城としての本城は上本城にあり、下之しもの城ともいわれるが(三国名勝図会)、史料にみえる下之城は場合によって別の城をさす可能性がある。文明六年(一四七四)の行脚僧雑録(雲遊雑記伝)には島津忠昌の「御内」(当奉行)として下大隅の伊地知・池袋両氏の名がみえ、これは本城の伊地知太郎左衛門尉重豊、下之城の池袋越前守宗政をさすとの朱筆がある。伊地知氏と当地のかかわりについては、応永一九年(一四一二)三月二四日の島津久豊宛行状(旧記雑録)によって「下大隅之内伊地知方」が由緒の所領として伊地知季豊に宛行われており、本城もこのうちに含まれていたであろう。

本城村
ほんじようむら

[現在地名]宮田町本城

遠賀おんが川支流の犬鳴いぬなき川中流左岸、むつヶ岳の南麓に位置する。南西は宮田村、南は上大隈かみおおくま村。北は室木むろき(現鞍手町)。中世の粥田かいた本庄ほんじよう郷の遺称地で、本庄とも書いた。小早川時代の指出前之帳によると、本城村の田八九町四反余(分米八五九石余)・畠二八町一反余(分大豆一二〇石余)。文禄三郡内知行方目録には「ほんしやう村」高九八〇石がみえ、小早川隆景に与えられている。福岡藩の成立後は同藩領となるが、元和九年(一六二三)から延宝五年(一六七七)、元禄元年(一六八八)から享保五年(一七二〇)までは東蓮寺藩(直方藩)領であった。

本城村
ほんじようむら

[現在地名]銚子市本城町

松本まつもと村の北西方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。中世は本庄ほんじよう郷ともみえる。妙見みようけんに中世城館の遺構が残るとして本庄城と称し、中島なかじま城の支城とされる。堀之内ほりのうち北の内きたのうちなどの地名が残る。天正一八年(一五九〇)松平伊昌領となり,年未詳の松平氏領書上(宮内家文書)では松本村一三九石余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一五三石余で幕府領。宝永六年(一七〇九)上野高崎藩領となり、高一六三石余のうち新田六石余(沢井家文書)

本城村
ほんじようむら

[現在地名]森吉町本城

北流する阿仁あに川の中流域、本城御嶽ほんじようみたけの北麓に位置する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「四百六拾壱石三斗七升二合 本庄村」とみえる。集落南側の高台に戦国期の館跡が現存。

佐竹氏入部以来開田が進み、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図の五九六石が、寛文一二年(一六七二)の打直検地では当高八三五石、家数八一軒を数えた。

本城村
ほんじようむら

[現在地名]最上町本城

富沢とみざわ村の北西、最上小国もがみおぐに川右岸に位置し、西辺を南流する絹出きぬで川が当地で合流する。主集落の十日とおか町は、村の北部丘陵上にあった小国城の城下として発達したと思われ、近世には小国郷代官の役屋や村内を抜ける最上小国街道の問屋が置かれ、絹出川対岸の向町むかいまち村とともに、小国郷の中心であった。新田本村鑑では枝郷として十日町をあげる。元和八年(一六二二)御前帳写では高二千八四四石余、寛文四年(一六六四)には高五二〇石余、うち改出三五石(三三石か)余・新田三五石余(新田本村鑑)、明和三年(一七六六)には高七四九石余、うち田方五八八石余、反別八二町二反余、うち田方五三町七反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数八八(うち借屋一六)、人数四〇七、駄馬一九三、明治三年(一八七〇)の郷村高帳によると山運上として金五五両一朱・銀一匁九分余・銭二〇七文を納めるほか糀屋・諸職人などの各運上銀銭を上納している。

本城村
ほんじようむら

面積:三二・四五平方キロ

江戸時代の松本藩領会田あいだ組、のち宝暦年間(一七五一―六四)からは坂北さかきた組に属した東条ひがしじよう村・西条にしじよう村・乱橋みだれはし村・大沢新田おおさわしんでん村の四ヵ村を合併し明治八年(一八七五)一月にできた本条ほんじよう村が、同一五年にまた四村に分村、同二二年に再び合併して本城村となり、同二七年中川なかがわ村の東北部の河鹿沢かじかざわを編入して、現在に至る。

北は坂北村、東は小県ちいさがた青木あおき村、南は四賀しが村、西は明科あかしな町に接し、地形は北に開け、東・西・南ともに山地で、川はすべて北流している。

全体に第三紀層を基盤とする小盆地の村であるが、江戸時代は北国西脇往還(善光寺道)が村を縦断しており、東は小県郡、西は川手かわて方面(現明科町)への道も開けており、文化・経済の交流もあった。

本城村
ほんじようむら

[現在地名]吉田町本城

吉田郷のほぼ中央に位置し、南東は重富しげとみ平松ひらまつ(現姶良町)。中世は吉田院のうち。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)に吉田院内の三名の一つとしてみえる「中納四丁八段」は当地に比定され、石築地役四尺八寸分が課されている。領主の長太夫幸道は息長姓吉田氏の一族で、翌三年八月日の領家下文(吉田家文書)によると、息長幸道は吉田院中納村の弁済使・名主職に補任されている。永正一四年(一五一七)三月二一日の島津家老臣連署坪付(旧記雑録)には本城名とみえ、吉田院宮之浦みやのうら名および本城名内の計一町一反余が萩野又左衛門尉に与えられている。

本城村
ほんじようむら

[現在地名]天瀬町本城・赤岩あかいわ

赤岩村の南、現町域の南東部を占める。本成とも書く(元禄見稲簿)。慶長六年(一六〇一)の予州替地御知行所目録(佐伯藩政史料)および同七年の玖珠郡・日田郡御蔵入目録(同史料)では五馬いつま庄の内とみられる。正保郷帳に村名がみえ、田高一六七石余・畑高二一五石余で、五馬庄に属した。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免三ツ六分三厘。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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