海老江村(読み)えびえむら

日本歴史地名大系 「海老江村」の解説

海老江村
えびえむら

[現在地名]新湊市海老江・海老江七軒えびえしちけん浜開新町はまびらきしんまち東明西町とうめいにしまち東明中町とうめいなかまち東明東町とうめいひがしまち東明七軒とうめいしちけん有磯ありそ

浜往来に沿い、西は浜開新村、東は三拾三さんじゆうさんヶ村(現下村)のうち七軒しちけん。中世は倉垣くらがき庄の内。もとは海老江明神と称し、村名の明神は倉垣庄の領主の加茂明神、海老江は海老の生息地に由来するという。浜往来の中間点とされ、北陸街道の東岩瀬ひがしいわせ宿(現富山市)放生津ほうじようづ町に通じる。正保四年(一六四七)の「越中道記」によれば、練合ねりや村から当村まで二一町(道幅二間)、当村から放生津町まで三〇町(道幅二間)であった。延徳三年(一四九一)三月一四日、冷泉為広は放生津から荒屋あらやを経て「エビエ」に至り、「メウシン橋」から「ネリヤヒ」へと進んだ(越後下向日記)。天文元年(一五三二)八月一〇日、打出うちいで(現富山市)の住人二屋五郎兵衛が「エヒエ」の住人彦左衛門より田地七〇刈を買得し、極性ごくしよう(現富山市)へ寄進した(「彦左衛門売渡状」極性寺暦代略記)。二屋五郎兵衛は同年九月二八日にも「クラカキシモ村ノ内、エヒエ」の住人平兵衛・藤兵衛らから一〇〇刈の地を買得し、同様に寄進している(「平兵衛・藤兵衛売渡状」同書)。また同一四年一一月二八日には「エヒエ西ノハシ」七〇刈の地を寄進した(「五郎兵衛寄進状」同書)

海老江村
えびえむら

[現在地名]荒川町海老江

荒川河口に位置し、西を旧胎内きゆうたいない川が北流して荒川に注ぐ。東は金屋かなや村、南は荒屋あらや村、西は蒲原かんばら桃崎ももざき(現北蒲原郡中条町)に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「御料所春日右衛門尉扱 色部分ゑびゑ村 下」とみえ、本納二五石一斗二升・縄高一五一石三斗八升四合、家一三軒とある。また南西「たゐな川」(旧胎内川)沿いに「色部分馬の座村 下」がみえ、本納一一石二斗・縄高五六石五升五合、家六軒とあり、当村の字馬座ばざに比定される。

近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)以降幕府領に属し、正徳二年(一七一二)上野館林藩預所となり翌年陣屋が置かれた。享保一三年(一七二八)出羽鶴岡藩預所、その後出羽米沢藩、高田藩預所となる。正保国絵図には「海老江村 二百石余」とあり、字馬座は「馬座村 百石余」とみえる。享保一一年の家数一一〇(「海老江郡中明細控」横野家文書)。宝永七年の村上領組々村名書上(高橋亀司郎氏蔵)では当村の小川金助が下保内組大庄屋を勤めている。宝暦一〇年(一七六〇)の米沢街道駄賃定書(渡辺家文書)では当地からの駄賃は四〇貫目を一駄として一六〇文、越目は一貫匁につき四文ずつとみえる。また正徳五年には塩谷しおや(現神林村)とを結ぶ渡船が認められ、常水時には一人につき五銭、馬一疋馬方ともで七銭、中水時には一人につき七銭、馬一疋馬方ともで一〇銭、満水時には一人につき一〇銭・馬一疋馬方ともで一五銭と決められ、旅人を待たせないこと、領内の者からは賃銭を取らないこととされた(「海老江渡船場許可書」荒川町郷土史)

海老江村
えびえむら

[現在地名]福島区海老江一―八丁目・大開おおびらき三―四丁目、西淀川区柏里かしわさと一―二丁目・花川はなかわ一―二丁目・姫里ひめさと一丁目

南流する中津川左岸にあり、東は浦江うらえ(現大淀区)、南は野田のだ村。集落は村の中央に位置し、北西部中津川東岸にも海老江新家えびえしんけの小集落がある。同所は鼻川新家はなかわしんけ・鼻川村ともいわれ、慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に「新家村」とみえる。村の北西端塚本つかもと(現淀川区)との境の中津川に野里のざと(柏の渡)、その下流には稗島ひえじま渡がある。なお当村付近の中津川は野里川ともいわれ、「細川両家記」享禄四年(一五三一)六月四日の記事に「中島の野里川」とある。「細川両家記」元亀元年(一五七〇)九月七日の記事に、織田信長が三好氏を討つため中島天満なかじまてんまもり(現北区)へ着陣のとき、「先陣衆は敵近海老江堤田中に陣屋懸られ候也」とみえる。三好三人衆の守る海老江は同八日、三好義継・松永久秀により落され(「言継卿記」同年九月九日条)、「信長公記」には同一二日「ゑひ江」に信長が本陣を移したとある。

海老江村
えびえむら

[現在地名]相良町大江おおえ

萩間はぎま川左岸に位置し、東は平田ひらた村、西は堀之内ほりのうち村。年月日未詳の平田寺領坪付(平田寺文書)に海老江村とみえ、建武四年(一三三七)一〇月三日臨済宗平田へいでん寺の塔頭霊松れいしよう庵に相良庄東方に属する当村などの田畠が寄進されたという。文禄二年検地高目録に海老郷村とあるのが当村とみられ、高二二三石余。慶長二年(一五九七)一二月一四日の榛原郡外勘定免目録(一豊公紀)に相良之内海老郷村免目録が載り、高頭二三六石余、荒引残の毛付分一九八石余、物成は一三〇石余。正保二年(一六四五)幕府直轄領から掛川藩預となる(掛川預一万石郷村覚)正保郷帳では田方二六二石余・畑方二四石余、掛川藩預、ほかに林光りんこう庵領二石・善能ぜんのう寺領二石・正八幡(現大江八幡宮)領四石五斗がある。当村は元禄(一六八八―一七〇四)の頃庄屋方と百姓方の二村に分れたとされ(遠江国風土記伝)、百姓方は小牧こまき村ともよばれた(遠淡海地志)

海老江村
えびえむら

[現在地名]湖北町海老江

現湖北町の南西端、早崎はやざき(現びわ町)の北方に位置。東は安養寺あんようじ(現びわ町)に接し、西は琵琶湖に面する。享徳(一四五二―五五)頃と推定される旦那在所注文(熊野那智大社文書)竹生ちくぶ(現同上)領として「ゑひへ」の名がみえる。年未詳の浅井長政書状(正田文書)によれば、長政が琵琶湖西岸の南小松みなみこまつ(現滋賀郡志賀町)から当村へ軍役米六〇〇石を船で運ぶよう正田大炊助に命じている。寛永石高帳によれば高四〇一石余、うち小堀領は一九二石余で、膳所藩領は二〇九石余。以後同藩領は幕末まで変化なし。同帳では小堀領が小堀遠州領(幕府領か)・旗本小堀正十領のいずれなのかは不明だが、正保郷帳では前者となっており、元禄郷帳では甲斐甲府藩領、天明村高帳では三河吉田藩領。

海老江村
えびえむら

[現在地名]舟橋村海老江

白岩しらいわ川の支流ほそ川左岸に位置し、北は竹内たけのうち村、南は竹鼻たけはな村、東は仏生寺ぶつしようじ村。地名は村内を海老江川(現在の細川)が流れていたことに由来するという(越中志徴)。正保郷帳では高一九五石余、田方一二町五反余・畑方五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二二六石、免四ツ七歩、うち五歩は延宝二年(一六七四)より永引、小物成は野役二〇匁(三箇国高物成帳)。天明四年(一七八四)の高二二六石、銀役二三匁余(「高野用水水下銀仕立覚」杉木家文書)

海老江村
えびえむら

[現在地名]明野町海老江

小貝こかい川左岸の低地にあり、東は築地ついじ村。明治二年(一八六九)の村鑑帳(広瀬家文書)によれば、慶長一二年(一六〇七)伊奈忠次の検地があり、村高は七三〇石に定まった。元和二年(一六一六)の浅野采女正の検地では村高九〇八・七一八石、田五五町八反七畝一〇歩半・畑四二町九反七畝二三歩となり、享保一四年(一七二九)の筧播磨守の新田検地で高一六・二一四石、田畑四町三反八畝二七歩が打出された。幕末は天領一六石余、旗本三浦氏領二七二石余、斎藤氏領二七二石余、小長谷氏領一五八石余、阿部氏領一四二石余、秋山氏領六三石余、香取神社・八幡神社・不動院領各三石、地蔵堂領二石(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報