三好義継(読み)みよし・よしつぐ

朝日日本歴史人物事典 「三好義継」の解説

三好義継

没年:天正1.11.16(1573.12.10)
生年:生年不詳
戦国大名。讃岐十河城(香川県高松市)城主十河一存(長慶の弟)の子。したがって長慶の甥に当たる。幼名熊王丸,通称孫六郎,初名重存。左京大夫。永禄6(1563)年8月長慶嫡子義興の死により家督に据えられる。翌年7月長慶没するや遺臣らは喪を秘して義継を領国8カ国の当主としたが,養父器量におよばず,三人衆と松永久秀が後見した。翌年の将軍足利義輝暗殺後,三人衆と久秀の間に内訌が起こり,三人衆は義継の身柄を拉致,飯盛から高屋城に移され全く三人衆の傀儡となった。しかし三人衆家臣らの人質扱いに怒った義継は,同10年2月秘かに堺の陣を脱して久秀の宿所へ走り,松永党が俄然優位を取り戻した。翌年9月織田信長が入京すると,機を見るに敏な久秀は信長に降り,そのため義継もこれに同調せざるをえなくなり,若江城主として河内北半国は安堵されたものの8カ国の大版図を一挙に失った。翌年3月には新将軍足利義昭の妹と結婚。この縁でその後は義昭とほぼ行動を共にするが,天正1(1573)年7月義昭の反によりその立場悪化,槙嶋城より退去した義昭を若江城にかくまった咎を受け,同年11月佐久間信盛の猛攻もとに自刃して果てた。ここに三好宗家は滅亡した。その暗愚が三好大領国を潰し,信長の畿内進出を容易ならしめたといえよう。<参考文献>今谷明『戦国三好一族』

(今谷明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三好義継」の意味・わかりやすい解説

三好義継
みよしよしつぐ

[生]?
[没]天正1(1573).11.16. 河内
戦国時代の武将。十河一存 (そごうかずなが) の子。一存の兄長慶の養子となる。初名,重存。長慶の死後,家督を継いだが,家宰松永久秀の勢力が強く,永禄8 (1565) 年久秀にすすめられて将軍足利義輝を二条城に襲って自殺させた。同 11年三好三人衆と抗争し,織田信長の入京後はこれに従ったが,天正1 (73) 年将軍足利義昭に応じて信長にそむき,信長の武将佐久間信盛らに攻められて若江城で自殺した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三好義継」の解説

三好義継 みよし-よしつぐ

1549-1573 戦国時代の武将。
天文(てんぶん)18年生まれ。十河一存(そごう-かずまさ)の子。伯父三好長慶(ながよし)の養子となり,永禄(えいろく)6年(1563)家督をつぐ。松永久秀と三好三人衆の後見をうけたが,両者の対立で久秀と同盟。11年織田信長に降伏して河内(かわち)(大阪府)半国をゆるされ,若江城主となる。のち信長と不和となった足利義昭をかくまい,天正(てんしょう)元年11月16日信長軍に攻められて自害。25歳。名ははじめ重存,義重。

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