海上賊船禁止令(読み)かいじょうぞくせんきんしれい

改訂新版 世界大百科事典 「海上賊船禁止令」の意味・わかりやすい解説

海上賊船禁止令 (かいじょうぞくせんきんしれい)

豊臣政権が国内統一過程において島津征伐の翌年,1588年(天正16)7月8日に発した海賊取締りの法令。3ヵ条からなる。内容は第1条が〈諸国の海上で賊船の儀を,堅く禁じたのに,こんど備後伊予の間にある伊津喜島付近で船を盗んだ族があったのは曲事である〉とあり,第2条では〈国々浦々の船頭猟師など舟をつかう者たちをその所の地頭代官が調査して,今後決して海賊行為はしない旨の連判の誓紙を書かせ,それを国主がとりあつめるべし〉とあり,第3条では〈自今以後,給人や領主が油断をしていて,その領内に海賊の輩がいれば,成敗をくわえて,曲事の在所と国主の知行は没収する〉と罰則規定をもうけて結んでいる。いまのところ知られている海上賊船禁止令の文書は九州地方では豊後大友氏,筑後の立花氏,薩摩の島津氏,中国地方では安芸の小早川氏,それに北陸の加賀溝口氏のそれがあるから,この法令の施行範囲は時日をおなじくして発令された武装解除の法令刀狩と同様全国に及んだとみてよい。

 すでにはやく秀吉は1582年(天正10)5月ころ瀬戸内海の海辺島嶼部に散らばる海賊城砦を接収して,そこに人数を入れることを明言しているが,さらに織田信長死後の85年ころには豊臣政権は〈唐入り〉(朝鮮出兵)の構想をうちだし,この法令発布のころになると,それがしだいに具体的な政策に反映しはじめた。すなわち瀬戸内海・九州方面の海域は〈唐入り〉のための兵站ルートとして重要な位置を占めてきたのである。禁令発布の2ヵ月後,豊臣政権は安芸の小早川隆景にあてて,野島村上氏が最近海賊行為をしたが,それは言語道断のことである。こちらから成敗を加えるべきだが,小早川氏の持分なのであるから,その処置はそちらに任せる。もし野島村上氏に言い分があれば,大坂へ上らせよ。そちらで処置しなければ,こちらから人数を派遣して処置するからと申し送っている事実がある。また肥前の深堀氏は,長崎へ入港する商船に勝手に礼物を要求して所領を没収され,城郭をも破却された。これらは禁令発布の年におこった事件である。肥前の松浦氏は1591年(天正19)10月秀吉から中国人の〈てっかい〉なる人物が松浦氏の領国内で商売をしているのは海賊行為にあたるから,それを取り締まるように叱責された。

 1594年(文禄3)に日本を訪れたアビラ・ヒロンは以前は大きな港では虐政と略奪があり,過当な重税をとられるので多くの船が港へはいりたがらなかった。いまではそうした危険はなく自由に港に出入りして,平和を享受していると認めている。これから判断するとこの法令は,かなりの成果をあげたといえよう。この法令が施行されたことは豊臣政権の支配権が瀬戸内海・九州地方の海域まで及んだことを意味した。浦を支配する海辺土豪や海辺土豪を支配する領国主である大名を掌握することが法令の眼目であり,豊臣政権の政治的意図であった。
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世界大百科事典(旧版)内の海上賊船禁止令の言及

【刀狩】より

…その理想像が示されている。 刀狩令の発布と同じ日に,瀬戸内地方における盗船の事例を契機として海上賊船の禁令(海上賊船禁止令)が出されている。これは,領国ごとに船頭・漁師から誓紙を徴すべきことを秀吉が指示したもので,海における刀狩令にほかならない。…

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