水戸城跡(読み)みとじようあと

日本歴史地名大系 「水戸城跡」の解説

水戸城跡
みとじようあと

現在の水戸市三の丸さんのまるの地に鎌倉時代から江戸時代にかけてあった城。那珂川とその支流桜川により浸食された台地の先端に位置する。

鎌倉時代の初期、馬場資幹が水戸の台地の東端居城を構えたのが起源といわれるが、その年代は不明。資幹は源頼朝の家人となり、常陸大掾職を与えられて水戸・府中両城を領した。応永二三年(一四一六)に大掾満幹が上杉禅秀の乱に加わって敗れ勢力を失うと、河和田かわわだ城主江戸通房は水戸城を攻略してこれを奪取、以後江戸氏が城主となった。その江戸氏も天正一八年(一五九〇)、太田城(現常陸太田市)の佐竹氏に滅ぼされた。

水戸城を占拠した佐竹義宣城郭を拡大し、水戸台地の東端に本丸、その西側に二の丸・三の丸を築き、台地上に五つの堀をめぐらして城下町を形成した。しかし関ヶ原の戦で徳川家康に味方しなかったため慶長七年(一六〇二)秋田へ移封された。そのあとに家康の第五子武田信吉、次いで第一〇子徳川頼宣、さらに第一一子徳川頼房が城主となった。この頼房を初代として以後二五〇年間水戸徳川氏の居城となり、二の丸に藩庁と三階櫓を建造、武家屋敷・町人町が整備された。徳川氏の水戸城は、寛永一五年(一六三八)に修築が完成したのち明治四年(一八七一)の廃藩まで、火災はあったが城郭の改造はほとんど行わなかったから、江戸時代を通じて当初の構造がそのまま伝えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報