佐竹義宣(読み)さたけよしのぶ

精選版 日本国語大辞典 「佐竹義宣」の意味・読み・例文・類語

さたけ‐よしのぶ【佐竹義宣】

安土桃山・江戸初期の武将。義重の子。母は伊達晴宗の女。常陸太田城に住し、北条氏直、伊達政宗と対抗。豊臣政権下で常陸を領有関ケ原戦いで豊臣方についたため出羽に国替えされたが、大坂冬の陣で軍功をあげる。元亀元~寛永一〇年(一五七〇‐一六三三

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐竹義宣」の意味・わかりやすい解説

佐竹義宣
さたけよしのぶ
(1570―1633)

安土(あづち)桃山~江戸初期の武将。久保田(秋田)藩主。義重(よししげ)の長子。元亀(げんき)元年7月16日常陸(ひたち)国太田城(茨城県常陸太田市)に生まれる。幼名は徳寿丸(とくじゅまる)、字(あざな)は次郎と称す。北条氏政(うじまさ)や伊達政宗(だてまさむね)と戦い、常陸の南方(みなみかた)三十三館(国人領主33氏)を謀殺し、江戸重通(しげみち)から水戸城を奪って居城とし、54万石余の大名となった。しかし、石田三成(みつなり)派であった義宣は、関ヶ原の戦いで徳川家康からそのあいまいな態度を憎まれて、1602年(慶長7)に出羽(でわ)20万石に転封させられた。久保田城を居城とし、土豪勢力を排除して藩体制を確立した。石田三成がかつて福島正則(まさのり)らに殺害されようとしたとき救助するなど律義な性格であった。寛永(かんえい)10年正月25日死去。

[福島正義]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「佐竹義宣」の解説

佐竹義宣

没年:寛永10.1.25(1633.3.5)
生年:元亀1.7.16(1570.8.17)
安土桃山・江戸初期の武将。常陸国太田(茨城県常陸太田市)を拠点とした戦国大名佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘で,伊達政宗は従兄弟。天正14(1586)年家督を継ぎ,豊臣政権下で54万5000石余を安堵される。慶長7(1602)年,関ケ原の戦で徳川側に加担しなかった責めを負い,出羽国久保田(秋田市)の地に転封。2度の領内総検地を実施して,秋田藩20万5000石余の基礎を築いた。家康と敵対した石田三成と親交があり,三成が反対派による謀殺の危機にあったとき,自ら乗り出して救出した逸話は有名。家康は,これにより義宣を「律義もの」と評したといわれるが,この律義さが,関ケ原での中立的態度をとらせ,出羽への国替えを招いたともいえる。<参考文献>『秋田県史』近世編上,『徳川実紀』1巻(『国史大系』)

(金森正也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「佐竹義宣」の意味・わかりやすい解説

佐竹義宣 (さたけよしのぶ)
生没年:1570-1633(元亀1-寛永10)

安土桃山・江戸前期の武将。義重の子。幼名徳寿丸,通称次郎,右京大夫。1588年(天正16)ころ家督継承,後北条・伊達氏の圧迫をうけたが,90年豊臣秀吉から領地安堵され,94年(文禄3)改めて常陸,下野,陸奥に54万石余を充て行われた。その間江戸重通を追い,その拠地水戸に本拠を移した。その後,関ヶ原の戦不参により,1602年(慶長7)徳川家康から出羽秋田20万石へ転封を命じられた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐竹義宣」の意味・わかりやすい解説

佐竹義宣
さたけよしのぶ

[生]元亀1(1570).7.16. 常陸,太田
[没]寛永10(1633).1.25. 江戸
安土桃山~江戸時代初期の武将。義重の子。母は伊達晴宗の娘。幼名徳寿丸。天正 14 (1586) 年家督を継ぎ,太田城に拠って北条氏直,伊達政宗と争った。父義重とともに早くから豊臣秀吉に通じて常陸統一に成功し,同 19年太田から水戸に本拠を移した。文禄の役に従軍,役後,常陸,陸奥,下野において 54万 5760石余を領したが,関ヶ原の戦いに西軍に加担したため,慶長7 (1602) 年出羽国秋田に移され,20万 5810石余に減封された。大坂の陣には徳川方として従軍,左中将となった。兵法家としても聞え,また,文芸や茶道に通じていた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「佐竹義宣」の解説

佐竹義宣
さたけよしのぶ

1570~1633.1.25

織豊期~江戸初期の大名。父は義重。右京大夫。左中将。1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めに参陣,以後豊臣権力を背景に常陸一国の平定に成功し,94年(文禄3)下野・常陸両国で54万5000石余を領する。関ケ原の戦後の1602年(慶長7)常陸国を没収され,出羽国秋田20万5000石余に減封された。以後,秋田藩政の基礎確立に尽力。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

367日誕生日大事典 「佐竹義宣」の解説

佐竹義宣 (さたけよしのぶ)

生年月日:1570年7月16日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名
1633年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の佐竹義宣の言及

【秋田藩】より

…維新当時の正式名は久保田藩であるが,1871年(明治4)1月秋田藩と改称し,一般に秋田藩と呼ぶことが多い。佐竹義宣は関ヶ原の戦後の1602年(慶長7)常陸54万石から秋田20万石(領地高は1664年確定)に移封を命じられる。出羽国秋田,檜山(ひやま)(1664以降山本),豊島(としま)(同河辺),山本(同仙北(せんぼく)),平鹿,雄勝の6郡と下野国河内,都賀郡のうち11ヵ村を領有。…

【佐竹氏】より

…常陸出身の中・近世の武家。清和源氏(図)。新羅三郎義光が兄義家に協力するため常陸介として下向し,子義業が久慈郡佐竹郷を領有,孫昌義が母方について土着し,奥七郡を支配して佐竹冠者とよばれるようになった。昌義の子と思われる義宗は下総国相馬御厨の預職に任命されている。源頼朝挙兵に当たっては,秀義が平氏に荷担して頼朝包囲に加わったが,1180年(治承4)逆に頼朝によって金砂山に攻められ,奥州に敗走,父祖の地を失った。…

【太閤検地】より

…最初は各地の出城の周辺部に置かれ,城を預かる武将の管理にゆだねられ,戦争の際の兵粮米(ひようろうまい)のために備蓄されていたが,のちに大名領国の内部にも設けられるようになった。1595年佐竹義宣に与えられた知行目録によれば,領国54万5000余石のうち,太閤蔵入地の1万石と,検地奉行である石田三成,増田長盛の知行地各3000石が含まれている。これは大名にとって政治的中枢部や特産物地帯を押さえられる結果となり,豊臣政権へのいっそうの従属を余儀なくされた。…

【常陸国】より

…またこの当時すでに中央の統一権力となった織田信長,豊臣秀吉や,甲斐の武田氏,越後の上杉氏らとも結んで勢力拡大を図る。89年(天正17)父義重のあとを継いだ佐竹義宣(よしのぶ)は翌年8月,後北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げた豊臣秀吉から常陸一国および下野の一部の直接・間接の支配を承認された。一方南部の小田氏,大掾氏,中央部の江戸氏らは後北条氏と親しく,秀吉への服属が遅れた。…

※「佐竹義宣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android