鷹匠町(読み)たかじようちよう

日本歴史地名大系 「鷹匠町」の解説

鷹匠町
たかじようちよう

西楽さいらく辻子の東西路と、新町しんまち通から西へ二筋目の南北路の交差する十字路を中心とした南北方向に長い縦町。

御駕籠おかご町・紺屋こんや町などとともに、伏見城下町以前は久米くめ村で、御香宮ごこうぐうを中心とする丘陵地の石井村に対し、低湿地で金札宮きんさつぐうを中心とした村落。豊臣秀吉の城下町造成によって久米村の住民や金札宮は立退きを命じられ、堀外の西郊久米町の辺りに移転させられた。その後金札宮は鷹匠町に遷座して、再び伏見の中心的位置を占めるに至った。

城下町時代は、「豊公伏見城ノ図」によれば、鷹匠町の中心をなす十字路から、西北地区は藤掛土佐守屋敷、東北は古田織部屋敷、西南は桑山丹後守屋敷とその南方に町家地があり、東南は北から岡田監物・大村丹後守・仙石左門の屋敷が南へと並んでいる。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]高知市鷹匠町一―二丁目・升形ますがた

郭中かちゆう南西部にある。高知城南門(御屋敷門)より南に延びる筋が鉤形に折れる地点から西折する道筋と、それに沿う堀を挟んで南側にある道筋に沿った町。北の筋に沿う町を俗に内鷹匠町、南の筋に沿う町を外鷹匠町といった。町の北は東部が中島なかじま町、西部は金子橋かねこばし。藩主の鷹部屋が内鷹匠町東端にあり、近くに数人の鷹匠が居住していたので名付けられた。寛永―万治(一六二四―六一)の侍町小割帳(皆山集)には「鷹師町」とみえる。郭外かみ町の南奉公人みなみほうこうにん町境界の堤より徳ヶ越戸へかけて長さ一六〇間、幅四間の堀があったが、数回にわたり埋立てて屋敷地にしたという(高知市沿革略志)

鷹匠町
たかしようまち

[現在地名]熊本市下通しもとおり一丁目・新市街しんしがい

下通町の西約四五間を下通町とほぼ並行に走る通りで、北はくすのき町南裏丁から南は白川端の町人町新鍛冶屋しんかじや町に至る通り筋。西は追廻田畑おいまわしたばた町と接する。江戸時代には武家屋敷地のため町名がなかったが、明治六年(一八七三)鷹匠小路と称し、同一三年鷹匠町と称し、一番丁から三番丁まで丁名もつけられた。鷹匠町には東西の五十人組ごじゆうにんぐみ町と知足寺ちそくじ町が結び付くので、一番丁は楠町南裏丁から五十人組町の間、二番丁は五十人組町から知足寺町の間、三番丁は知足寺町から新鍛冶屋町の間と推定される。

鷹匠町
たかしようちよう

[現在地名]岡山市出石町いずしちよう一丁目・弓之町ゆみのちよう天神町てんじんちよう

中堀と外堀の間にある郭内武家屋敷町。東は中出石町、南は下出石町・中堀、西は弓之町、北は外堀・伊勢宮口門に接する。寛永城下絵図でも武家屋敷地で、町名は各城下絵図とも記載がない。貞享三年(一六八六)の御触書(国富文書)によると、「鷹居町」と郡会所の御用厩が火事のときには小畑おばた町のほか野田屋のだや町・塩見しおみ町・難波なんば町で計五〇人が出て奉行衆の指図を受け、相勤めるよう命じられている。鷹居町は当町のことか。同四年頃当町に郡方厩ができ、おいおいに一〇〇騎余りになった(撮要録)

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]徳島市鷹匠町一―四丁目・紺屋町こんやまち

大道おおみちの東に並行して南北に続く武家地。北を籠屋かごや町、南を餌指えさし丁、東を定普請じようぶしん丁に囲まれる。古くは鷹匠が多く居住したことから鷹匠町とよんだといわれる。鷹匠は文政一一年(一八二八)の無足以下分限帳(蜂須賀家文書)では二一人おり、禄高は四人扶持支配七石が多かった。寛永八―一三年(一六三一―三六)の忠英様御代御山下画図では、当地は草深い土地として描かれ未開発であったが、天和三年(一六八三)の渭津城下之絵図では、はっきり宅地化している。同図によれば鷹匠町の北端一角に鷹匠屋敷が置かれていたが、その東方向い側には台所人屋敷があり、足軽町が大多数を占めていた。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]弘前市鷹匠町

城の西側に位置し、あら町から五十石ごじつこく町に至る道筋の町並。東は馬屋まや町に接する。

寛永末年の津軽弘前城之絵図(櫛引元三氏蔵)によれば、鷹師たかし町と侍屋敷とに分れ、鷹師町には三四軒、侍屋敷には二二軒があった。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)では、鷹匠町と侍町とに分れ、鷹師が二三軒と餌差が一軒、二〇軒の侍屋敷と三軒の町屋がある。町の東側を岩木川が流れ、川沿いは川原地。延宝二年(一六七四)と天和二年(一六八二)の岩木川掘替工事以後も、鷹師町・鷹匠町ともよばれて侍町としての性格は変化しない。元禄(一六八八―一七〇四)の武家屋敷郭外移転では、元禄一〇年に一町田権之進が町内へ屋敷を与えられ、宝永(一七〇四―一一)の三の郭住宅移転でも、下級藩士が屋敷を町内へ移転した(国日記)

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]館林市城町しろまち大手町おおてまち

三ノ丸の西、代官だいかん町の南にあり、西は城濠を隔ててかた町に接する。江戸時代末は中士級の屋敷地となった。町名は鷹匠の居住したことにちなむとされ、戦国期からとも江戸時代初期からともいわれる。享保三年(一七一八)館林領の村々が御鷹捉飼場になり、鳥類殺生や川での漁業が禁止された(天保六年写「旧書類寄帳之内御鷹場一件」荒井家旧蔵)。入る頃ぬるく出る頃熱めに沸かした風呂を「おたかじょう」とよんだように、鷹匠は村では丁重に扱われたという。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]姫路市鷹匠町

姫路城の西、やなぎ町・材木ざいもく町の西に位置する武家町。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図に町名はみえず、現在の鷹匠町とその西に「足軽町」が広がり、北に「坂元」(町)という町人町と、その西に一四軒の侍屋敷、さらにその西に餌差屋鋪がある。寛文七年―天和二年(一六六七―八二)の姫路城下図では前図の坂元さかもと町から西のほとんどが「鷹」または「鷹匠」となり、現在の鷹匠町の東部は「鷹匠」、西部は「餌指」、さらにその西が足軽町になっている。元禄八年(一六九五)写の姫路城図は現在の鷹匠町の位置に当町名を記し、町の北から西に通じる道を書写しよしや道、道沿いを「歩行小役人町」と記す。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]津市北丸之内きたまるのうち

玉置たまき町・新道しんみちの北で西検校にしけんぎよう町の西にあたる軽士と町人の雑居町。鷹匠関係の軽士が集まっていたための町名で、榎之下えのきのしたなどと同じく延宝(一六七三―八一)頃の成立らしい。鷹匠町や榎之下は初期城下町の外郭である惣構そうがまえの外側であったからか、寛延(一七四八―五一)頃の「宗国史」には、城外の仕家(侍町)として挙げられる。貞享三年(一六八六)「鷹匠町・榎木之下之左右・万町之裏・堤端之前後」などの町々端々に、甲乙人が出入し放埒の振舞があるから、在家・奉公人・寺々もみだりに宿を貸すなと城代より取締りが命じられている(宗国史)

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]鶴岡市家中新町かちゆうしんまち若葉町わかばまち

七ッ蔵ななっぐらの北、家中新町の東にあり、東西に続く郭内の家中屋敷地。鷹師たかし町ともよばれ、また裏鷹匠うらたかじよう町に対し表鷹匠おもてたかじよう町とも称された。町名は御鷹部屋が置かれ(のち移転)、鷹匠頭・鷹匠衆の屋敷があったことによる。延宝六年(一六七八)の城下絵図に鷹師町とみえ、一五〇間。同町東に続く小姓衆こしようしゆう町一〇六間ものち鷹匠町に含まれたとみられる。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]中津市中津 鷹匠町

てら町の北にある東西通りの武家屋敷町で、西は浄安じようあん寺に突当り、鉤形に曲がってさくら町に続く。東は餌指えさし町を経て蠣瀬口かきぜぐち御門に至る。南側は中級武家屋敷と寿福じゆふく寺・東林とうりん寺がある。東林寺は医王山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は薬師如来。承久元年(一二一九)七堂伽藍を建立、仁治二年(一二四一)円爾弁円が開いたが、大友氏の兵火で焼くと伝える。

鷹匠町
たかじようちよう

[現在地名]大垣市鷹匠町・神田町かんだちよう

大垣城の西に位置する士屋敷地域。北は番組ばんぐみ町、西は西長にしなが町。もと切石きりいし村のうちで、寛永―元禄期(一六二四―一七〇四)に侍町となったとされ、町名は藩主に従う鷹匠が居住したことによる(新修大垣市史)。しかし正保城下絵図(内閣文庫蔵)では、南北の侍屋敷の間にほぼ正方形の一画が記され、鷹匠町とみえ、東は外堀水門すいもん川、西は牛屋うしや村に接している。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]福井市宝永ほうえい一―二丁目

福井城の東北郭内にあり、南北に走る通りに沿った町で、藩主の鷹狩に随行した鷹匠の屋敷町。

鷹匠町を西に折れると東西に走る道に沿って北から元御泉水もとおせんすい町・天王てんのう町・八軒はちけん町があり、さらに西に御泉水町がある。いずれも武家町で、天王町は北庄きたのしよう城鬼門除守護神の牛頭天王社(現簸川神社)が鎮座したための町名。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]上田市中央ちゆうおう一丁目

上田城の南東、寛文三年(一六六三)の上田城下家数書上(上田小県誌)に、「侍屋敷一八三軒、歩行鷹匠其の他扶持人四二軒」と記され、扶持を受けた鷹匠の居住していたことが知られる。寛文九年頃の古地図(「成沢史料」「緑川史料」上田市立博物館蔵)では、町の南が断崖でその下を千曲川の枝流が流れる。一〇〇石から二〇〇石の侍屋敷が軒を並べ、東端は北国脇往還沿いの常田ときだ(現上田市常田)に続き、西は行止りで崖を隔てて屋形の御厩裏となっている。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]和歌山市鷹匠町一―四丁目

元禄一三年(一七〇〇)の和歌山城下町絵図には珊瑚さんご寺の東側を南に下る筋の東側に御鷹部屋があり(現鷹匠町二丁目付近)、付近を鷹匠町と称し、上下二町に分れていた。寛政城下町絵図でも「御鷹」と記され、西隣に同心屋敷が描かれる。同絵図の北方には「大井戸」と記される所があり、後にこの付近は大井戸おおいど町と称された(続風土記)。「大井」は「紀伊名所図会」に「清冽にしていたつて甘味なり、寒暑といへども増減あることなし」とある。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]土浦市中央ちゆうおう二丁目

土浦城の北東に位置する。勝軍木ぬるで郭とも称する。万治元年(一六五八)に藩主朽木稙綱は士卒の長屋を外西そとにし町に造り、「土浦城記」に「足軽町本在于勝軍木郭則今之士小路也」とあるように、勝軍木郭に住んでいた士卒を外西町に移し、勝軍木郭には侍屋敷を設けた。また稙綱は将軍家の鷹を取扱っていたので、鷹匠を勝軍木郭に住まわせたため、鷹匠町ともよばれるようになった。

天保九年(一八三八)一二月の与兵衛出之承届(国立史料館蔵)に「鷹匠丁入刎橋是迄暮六時迄致通用候儀、此度同所新番所出来候ニ付」とあり、番所が設けられていた。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]秋田市千秋矢留せんしゆうやどめ町・同中島なかじま町の各一部

本丸の西、あさひ川の東に南北に長く広がる。土手長町上どてながまちかみ丁から互土手を経て鷹匠町に入る。兵具庫の外堀に沿い、北中島きたなかじまに至る。「梅津政景日記」寛永八年(一六三一)六月二〇日条に「御閑居所西古寺町割余りニ御鷹衆差置候様にと被仰付、拾六人御書立被下候、有増割仕、日暮候罷帰候」とある。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]中区本川ほんかわ町一―三丁目・十日市とおかいち町一―二丁目

広瀬ひろせ村域内にできた武家町で、本川(太田川)西側の縦筋に面し、南は町地の鍛冶屋かじや町に続き、北は空鞘そらざや町。この筋の西側、清住せいじゆう寺東隣に御鷹部屋があったため(天明年間広島城下絵図)この名があったと思われるが、文久年間広島城下絵図には北の空鞘神社北西に餌差組の者の居住する多門を描く。

鷹匠町
たかしようまち

[現在地名]明石市鷹匠町

明石城の郭内、中堀と外堀の間を南北に走る三本の道が四分割し、その一番西の区画の北端に位置する。城の西側を守るため中堀・外堀が明石川に並行して南北に走り、当町は両堀に挟まれるかたちで南北に延びる。南端は王子おうじ御門、大横おおよこ町・上水じようすい町に接している。明石藩士が居住した家中町の一つ。文久年間(一八六一―六四)の明石町之図、同三年の明石町旧全図に町名がみえる。

鷹匠町
たかしようまち

[現在地名]米沢市城西じようせい二丁目

御守おもり町の西、三の丸堀に接して内側にある中級家臣屋敷町。南北の道の両側町。北は関東かんとう町に接する。御用鷹匠が居住したことからの町名と考えられる。寛文一二年(一六七二)の惣町軒数目録によれば、銅屋どうや町・なが町の町人らが御鷹部屋の雪掘役を負担している。

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]加賀市大聖寺鷹匠町だいしようじたかじようまち

福田ふくだ町の東にある武家町。大聖寺川が北側を流れる。町名は鷹匠の居住に由来すると伝えるが、江戸時代中頃には中級武士の居住地で、天明六年(一七八六)の大聖寺絵図では塚谷・雨夜・一色・斎藤・東方ら一〇〇石以上の藩士の居宅が並び約五〇戸からなっていた。宝暦一〇年(一七六〇)の大火でほぼ全焼(「清水長勅日記」大聖寺藩史)、天明九年の洪水ではすべて浸水し八間道はちけんみちまで船で行ったという(「笠間亨日記」加賀市史料)

鷹匠町
たかじようまち

[現在地名]金沢市石引いしびき四丁目

下石引町の通りの南西側に位置する両側町。町名の由来は、寛文二年(一六六二)鷹匠組の屋敷や鷹部屋が置かれたことによる(金沢古蹟志)。それ以前鷹部屋は並木なみき町前田兵部屋敷地にあった(金沢古蹟志)

鷹匠町
たかしようまち

[現在地名]関宿町関宿町

さくら町の南西に位置する武家町。関宿城を取囲む土塁を境に南は江戸えど町。正保城絵図(内閣文庫)では侍屋敷地となっている。鷹匠の家があったことが町名の由来とされるが、久世氏(第二次)の時代は鷹匠の者は少なく、町内は武家屋敷ほか馬場などが置かれていた。

鷹匠町
たかんじようまち

[現在地名]彦根市元町もとまち佐和町さわちよう

餌指えさし町の南に隣接する。町名のとおり鷹匠にかかわる職掌の者が居住、江戸後期には鷹役の朽見氏・武藤氏・林氏・藤本氏らが確認され、ほか馬役の吉田氏、庭奉行添役の渡辺氏などが住していた(井伊家役人帳など)

鷹匠町
たかしようまち

[現在地名]松本市開智かいち一丁目

松本城本丸の西北方、三の丸の堀の外に置かれた町である。「信府統記」に「鷹匠町 東西百三間余、北ケ輪家八軒、但シ、南ノ端鍛冶細工所アリ、鍛冶屋脇ノ木戸ヨリ南ヘ西馬出シ南角迄、南北九拾三間余、西ケ輪ニ家数二軒、東側堀端ナリ、但シ鉄砲細工所アリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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