武徳殿(読み)ブトクデン

デジタル大辞泉 「武徳殿」の意味・読み・例文・類語

ぶとく‐でん【武徳殿】

平安京大内裏殿舎の一。右近衛府の東にあり、騎射うまゆみくらべ馬などのときに天皇がこの殿舎で観覧した。弓場殿ゆばどの
明治28年(1895)京都平安神宮境内に建てられた大日本武徳会の演武場。現在は廃止

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「武徳殿」の意味・読み・例文・類語

ぶとく‐でん【武徳殿】

[一] 平安京大内裏の西部殷富門内にあり、宜秋門より宴の松原をへだてて西、右兵衛府の東に位置した御殿。その東面が馬場となり騎射・競馬などの武技が催された。馬埒(ばらち)殿。
類聚国史‐七三・五月五日・天長六年(829)四月己巳「御武徳殿、覧諸国攸進駒
[二] (一)に模して、京都平安神宮西側に設けられた大日本武徳会の武道場。明治三二年(一八九九落成。毎年四月二九日に武徳祭が行なわれた。現在は廃止。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「武徳殿」の意味・わかりやすい解説

武徳殿 (ぶとくでん)

平安宮の馬場の正殿。《和名抄》によれば〈むまきどの〉と訓ずる。また馬場殿とも記す。818年(弘仁9)以前には馬埒殿(ばらちでん)と称した。殷富門の内側で図書寮の南,造酒司の北に所在する。毎年恒例の端午節会の5月5,6日の騎射と競馬,それらに用いる馬を貢献する4月28日の駒牽を行った。東を正面とする7間・2間の身舎(もや)に四面廂(ひさし)を付けた南北棟建物で,高御座を設けて儀式の際には天皇が出御する。西側の背後に7間・2間の南北棟の後殿を置き渡殿で結ぶ。武徳殿の東側の広場が馬場で,南北方向の2列の柵による埒(らち)を設け,その中で騎射や競馬を行った。武徳殿から内裏中重までは宮内で最も広い空閑地で,その東部は〈宴(えん)(または縁)の松原〉と称する松林となっていた。975年(天延3)2月武徳殿は焼亡するが,986年(寛和2)5月までに再建された。平城宮では騎射や競馬の行事のための特定の殿舎と馬場は設けられず,南苑や松林苑で行った。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「武徳殿」の意味・わかりやすい解説

武徳殿
ぶとくでん

平安京大内裏(だいだいり)の殿舎の一つで、大極殿の北西に建てられ、796年(延暦15)に完成し、武芸優秀の者を諸国から徴集して、初めての天覧が行われた。建物は東面し、前面に宴の松原があり、端午の節儀後などには、ここで駒牽(こまびき)(競馬(くらべうま))や騎射(きしゃ)が行われ、馬埒殿(うまらちどの)、弓場殿(ゆばどの)などとよばれた。平安中期以後、しばしば焼亡と再興を繰り返したが、1895年(明治28)大日本武徳会の創設を機に平安神宮内に模擬の武徳殿を新築し、同会の大演武場とした。

[渡邉一郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武徳殿」の意味・わかりやすい解説

武徳殿
ぶとくでん

(1) 平安京大内裏 (だいだいり) の殿舎。射場 (いば) 殿,馬場殿ともいう。天皇がここで武技や駒牽 (こまひき) などを観閲した。 (2) 1895年京都市が平安神宮造営のとき,大日本武徳会を創設し,99年設立した演武場の名。のち全国各都道府県に1つずつ設けられた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の武徳殿の言及

【大日本武徳会】より

…初代役員は,総裁小松宮彰仁(あきひと)親王,会長渡辺千秋(京都府知事),副会長壬生基脩(平安神宮宮司)。武徳会は,平安神宮境内に武徳殿を建てること,毎年武徳祭を催すこと,武道の保存・奨励・普及をはかること,武器・用具・史料などを収集すること,会誌の発行などをおもな事業とし,さらに各府県に支部を置いて,府県知事を支部長とした。武徳殿は99年に竣工し,各府県支部も相次いで武徳殿を建てた。…

※「武徳殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」