宮内(読み)クナイ

デジタル大辞泉 「宮内」の意味・読み・例文・類語

く‐ない【宮内】

皇居の中。宮中。みやのうち
宮内省」の略。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「宮内」の意味・読み・例文・類語

く‐ない【宮内】

〘名〙
① 皇居のうち。きゅうちゅう。みやのうち。
続日本紀‐延暦三年(784)六月丁卯「百姓私宅、入新京宮内五十七町」 〔徐陵‐玉台新詠序〕
② 「くないしょう(宮内省)」の略。〔伊京集(室町)〕

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「宮内」の解説

宮内
みやうち

鹿児島神宮参道付近を中心に、同宮境内一帯に比定される。治承二年(一一七八)、鹿ヶ谷事件により鬼界きかいヶ島に流されていた藤原成経は赦免されて帰京する途上、正八幡宮(現鹿児島神宮)執印のもとに寄宿、同所を出発する時の記述に「袖に霜をおきすごすも宮内を立給ふ」とみえる(長門本「平家物語」)。応永九年(一四〇二)八月一二日、島津元久から隈本石見守に「大隅国宮内万得房跡功得丸」が料所として宛行われている(「島津元久宛行状」旧記雑録)。同一八、九年頃とみられる一〇月一一日の樺山氏宛の島津久豊書状(樺山文書)には、「兼又宮内ニ候之時、御使到来之刻」とみえる。文明八年(一四七六)、守護家の島津忠昌と対立する豊州家の島津季久は肥後相良氏に加勢を依頼、吉田よしだが一段落ののち一両日以前に宮内と敷禰しきね(現国分市)夜討ちのように兵を出した。その後清水きよみず姫城ひめぎ(現国分市)などの麦作等を取ると述べている(四月八日「島津季久書状」相良家文書)。翌九年一月二七日には桑畑氏・正興しようこう寺住持と結んだ帖佐ちようさ(現姶良町)加治木かじきの兵が宮内に入ったが、閏一月五日には北郷氏・樺山氏らの軍が咲隈えみのくまに陣を布いたので、翌六日帖佐・加治木兵は退いたという(島津国史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮内」の意味・わかりやすい解説

宮内
みやうち

山形県南部,米沢盆地北部の南陽市の中心市街地。旧町名。吉野川の谷口に位置し,熊野神社門前町として発達,中世には大津氏が居城。慶長年間 (1596~1615) からは,米沢に次ぐ中心町として発達した。明治初年,製糸工場が設けられてから,羽前特販糸と呼ばれる優良な生糸を生産。一時は置賜地方の約半分の生糸生産量があった。

宮内
みやうち

新潟県中部,信濃川右岸にある長岡市南部の地区。旧町名。 1954年長岡市に編入。 JR宮内駅があり,信越本線から上越線を分岐する。上越線の西側国道 17号線が並走し,自動車の販売・修理業,食品加工業が進出し,商工業地区を形成。左近堤は長岡市街を信濃川から守る生命線である。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宮内の言及

【浄瑠璃】より

…42年には山城出身の左内が若狭守藤原吉次を受領した(語り物に《ともなか》ほか)。浄雲系で伊勢出身の宮内(伊勢島宮内)が寛永末に上京し,四条河原で興行する(語り物に《石橋山七きおち》ほか)。競っていた左内,宮内が没した後に,すでに江戸から上京していた虎屋喜太夫が台頭し硬派の浄瑠璃を語り,58年(万治1)に上総少掾を受領,天下一上総と称した。…

※「宮内」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android