横瀬村(読み)よこぜむら

日本歴史地名大系 「横瀬村」の解説

横瀬村
よこぜむら

[現在地名]横瀬町横瀬

武甲ぶこう山の北東麓に位置する。東はあし久保くぼ村、南は山峰を境に名栗なぐり(現名栗村)浦山うらやま村・上影森かみかげもり(現秩父市)、西は大宮おおみや(現同上)、北は山田やまだ(現同上)。芦ヶ久保村から西流してきた横瀬川が村内を貫流し、武甲山東麓を北に流れるうぶ川が、根古屋ねごや付近で同川に合流する。横瀬川に沿い江戸秩父道が通る。また山田村から南下して生川に沿い妻坂つまさか峠に向かう道は相州大山に通じていた。芦ヶ久保村は享保一八年(一七三三)に当村から分村した(風土記稿)。中世には横瀬郷とよばれ、丹党に属する横瀬氏の本貫地であった。丹党系図(諸家系図纂)によれば中村(横脛)悪三郎時親の子時綱が「横(瀬カ)」を号している。

暦応三年(一三四〇)正月二四日の安保光泰譲状(安保文書)によれば、安保光泰が惣領泰規に譲与した所領のうちに「秩父郡内横瀬郷」などがあった。なお同年八月二二日の安保光泰譲状(同文書)にも同様の記載がある。天正四年(一五七六)四月一一日、北条氏邦は「横瀬之内」の兵部大夫に対して陣庭への馬一匹の供出を命じている(「北条氏邦印判状写」風土記稿)

田園簿では高一千一五四石余・此永二三〇貫八一〇文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。なお、天正二〇年の年貢請取状(加藤家文書)には横瀬之郷、明暦元年(一六五五)検地帳(若林家文書)には横瀬郷とあって、近世初期までは横瀬郷の呼称も用いられている。

横瀬村
よこぜむら

[現在地名]江刺市藤里ふじさと

浅井あさい村の南に位置し、北上高地の山地と丘陵に立地。南東部に国島くにしま(四八四メートル)前田まえだ(四五三・六メートル)があり、北部を西流する伊手いで川およびその支流の横瀬川流域に平地が広がる。鳥海とりのみ(現東磐井郡大東町)の及川豊後守重純は、享禄二年(一五二九)江刺方に侵入、当村において江刺三河守隆見と合戦、敗退している(岩手県史)。天文一一年(一五四二)八月七日の葛西高信宛行状(及川文書)によれば、及川彦十郎種村が高信から江刺郡のうち「横瀬三千苅」を与えられている。天文年間から永禄年間(一五五八―七〇)当地に横瀬播磨藤原信実が居住した(岩手県史)。字湯坪ゆつぼ沼尻ぬまじり城に及川弥兵衛が拠った(仙台領古城書上)。「葛西真記録」も及川弥兵衛を「横瀬村主」とする。

寛永一九年(一六四二)の横瀬村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方八二町二反余・代一〇二貫四文、畑方八一町六反余・代二三貫八一二文、茶畑六反一畝余・代一貫五七三文、名請人数七〇。

横瀬村
よこぜむら

[現在地名]中村市横瀬

有岡ありおか村の北、なべもり(六三五・一メートル)に源を発して南流する横瀬川の下流域にあり、横瀬川左岸の山麓に位置する。「土佐州郡志」は「東西二町許南北九町許、戸凡八十、其地多砂、有川流、経村中南流、久才川村属本村」と記す。地名は「蠧簡集」が「右、横瀬村薬師仏体之内筆之、今按寺今亡、薬師猶存焉、忠康未詳」と注して載せる銘文に「横瀬村瑠璃光山薬師、元亨四年二月十日、本願主日向守惟宗忠康」とみえるのが早い例。なお「南路志」が書上げる当地の寺社のなかに薬師堂があり、「瑠璃光山養達寺、退転、本尊而已存」と注する。

天正一七年(一五八九)の幡多庄横瀬村地検帳によると検地面積七二町一反余、屋敷数一四七、これは江戸時代の久才川くさいがわ村分を含む。江戸時代の横瀬村に該当すると考えられる地域の検地面積は六五町二反余、屋敷数一三三うち居屋敷八。

横瀬村
よこせむら

[現在地名]大分市横瀬・みどりおか一―五丁目

田原たばる村の西、大分川右岸の平坦地にあり、南部は丘陵をなす。北は大分川を隔てて国分こくぶ村・平横瀬ひらよこせ村。乾元二年(一三〇三)五月一八日の阿南庄松富名半分新田畠実検帳(大友文書)に「五郎太郎あとのこふかき藤三郎」として、田代「よこせのミちのした」などとみえ、阿南あなん庄松富名に包括されていた。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高一千一〇〇石余、横瀬村組。

横瀬村
よこぜむら

[現在地名]深谷市横瀬

利根川右岸の自然堤防上に位置し、西は宮戸みやど(現本庄市)、南は北阿賀野きたあがの村・血洗島ちあらいじま村・下手計しもてばか村、北は上野国佐位さいしま(現群馬県境町)。本庄領に所属(風土記稿)。中世の横瀬郷に比定される。利根川の河道変化に伴い、当地は同川の右岸・左岸にたびたび入れ替っていたようで、「風土記稿」榛沢はんざわ郡総説の項では寛永年間(一六二四―四四)に武蔵国所属となったと推定している。

横瀬村
よこせむら

[現在地名]大崎町横瀬

大崎郷永吉ながよし村の東にある。西を大橋おおはし(持留川)が南流し、北東部を田原たばる川が南東流して海に入る平坦な村で、東は海(志布志湾)に面し、海岸に沿って松林(現在のくにの松原の一部)が連なっていた。天正一七年(一五八九)九月一八日の島津義弘証状(旧記雑録)に「求仁郷大崎之内横瀬名窪之門」とみえる。同門田数計一町六反一〇歩のうち「仏神領堀町五反十并壱箇所、清水屋敷畠地一石蒔」は鹿児島諏訪神(現鹿児島市南方神社)領であったが数十年途絶えていたのを、天正五年島津義久が造営田として寄進、同一七年義弘も同じように寄進している。

横瀬村
よこせむら

[現在地名]勝浦町三渓みたに 横瀬

棚野たなの村の北に位置し、当地で勝浦川に坂本さかもと川が合流する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「よこせ村」と記され、正保国絵図では「横瀬村」として高一三九石余。慶安三年(一六五〇)の蜂須賀光隆領分高并当物成帳では高二四一石余、物成九七石余、内麦三石余、人数二〇(夫役六人八歩)、並炭七石余(三斗俵)、樅四寸角一四七本・樅五分板(長さ一二間・六枚伏)二枚・垂木(長さ二間半)一八〇本。

横瀬村
よこせむら

[現在地名]津和野町部栄ぶさか

鳥井とりい村の北、高野たかの川が津和野川に合流する地点以南の河谷低地と後背山地に立地。津和野城下から蕪坂かぶさか峠越の道や津和野川沿いの道が通り、飯浦いいのうら(現益田市)方面と結ぶ。宝永石見国郷村帳では高一四七石余。明治四年(一八七一)の万手鑑によれば古高六〇石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一五七石余、明治四年の総高二一〇石余・反別二五町三反余、家数三一(本百姓三〇・医師一)・人数一二一、牛二三、米蔵一、紙漉舟一五、鉄砲四。

横瀬村
よこせむら

[現在地名]大宮町鷹巣たかす

東を久慈川が流れ、北は上根本かみねもと村。「水府志料」に「保内領より水戸城下への往還道筋なり。また上根本村の地より来れる用水江有て、部垂村に流る」とある。

康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「周枢侍者分 一、久慈西下横瀬村半分 一期あひた知行すへき也」とあり、貞治五年(一三六六)二月一〇日の奥郡役夫工米切手在所注文(税所文書)には「(久慈)西郡横瀬郷十五町」とある。

横瀬村
よこせむら

[現在地名]犀川町横瀬

木井馬場きいばば村の南、はらい川中流域に位置し、蔵持くらもて山東麓に点在する四集落からなる。「宇佐大鏡」所載の宇佐宮大宮司公順処分状案に「仲東郷城井郷字横瀬浦 田二丁六反 代」とみえる。太宰府天満宮は観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状において、城井・横溝(横瀬か)など四ヵ所は根本所領であったが、御家人、甲乙人らに押領されていたとしている。

横瀬村
よこぜむら

[現在地名]広神村横瀬

種苧原たなすはら(現古志郡山古志村)に源を発する和田わだ川が破間あぶるま川に合流する三角地帯にある。北は長堀ながほり新田、西は和田川を挟んで和田村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報