曾於郡(読み)そおぐん

日本歴史地名大系 「曾於郡」の解説

曾於郡
そおぐん

面積:八六九・六一平方キロ
財部たからべ町・末吉すえよし町・大隅おおすみ町・輝北きほく町・大崎おおさき町・有明ありあけ町・志布志しぶし町・松山まつやま

大隅半島の北東部に位置する。西部は北から姶良あいら郡霧島町・国分市・姶良福山ふくやま町・垂水たるみず市・鹿屋かのや市、肝属きもつき串良くしら町・東串良ひがしくしら町と接し、北東部は宮崎県と隣接、南東部は志布志湾に臨む。北部西側は霧島山系の山嶺、南西部は大隅山地が連なり、南東部に向かって傾斜する地勢で、全体が丘陵性の台地となっている。北西部にはボラ層(軽石礫層)が広く分布、中部から南部の沿岸地帯にかけてシラス台地が広がり、安楽あんらく川・菱田ひしだ川などが志布志湾に注ぐ。北部では東流する大淀おおよど川上流が台地全体を浸食している。

郡名の表記は、古代には曾於のほか贈於・噌於・贈唹・囎唹・贈雄などがみられ、人名では曾とも記される。本来この郡名は曾乃峯などのように曾・襲の一字で表記されていたもので、ソオはソである。背、つまり日向に対する山の背の意とする見解もある。記紀に熊曾・熊襲、「豊後国風土記」日田郡条などに球磨贈於とみえるクマソは肥後国球磨と大隅国贈於の両勢力とする説が通用する一方、畿内勢力にとって征討すべき地「襲国」のことで、クマは猛々しいの意、ソは地名または居住者と想定する説もある。ソをソオとするのは発音上の便宜であり、曾於以下の二文字表記は郡名・郷名には佳字二字を用いよとする律令政府の政策に従った結果であろう。したがってソノコオリまたはソオノコオリから曾乃郡という表記は生じやすく、あるいは本来の表記にのっとったというべきもので、中世に散見する曾野郡の表記もこうした背景に由来する。

郡域は時代により大きく変化するが、近代以前は、各時代を通じて当郡域であったのは現国分市・霧島町・福山町・乗水市(一部)・桜島にわたる一帯といえよう。古代に国制が置かれる以前、大隅国の地域は南半部が大隅、北半部が贈於と称されていた時期があり、大隅国の分立の頃、贈於郡は大隅国の北半部を占めていたと考えられる。のち当郡の北部から桑原くわはら郡・菱刈ひしかり郡が分置される。中世には小河おがわ院などが成立するが、なお曾於郡・曾野郡などとみえ、表記およびその郡域は時期または史料によって異同がある。しかし中世末には小河院の西部は当郡に含まれている。近世には寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳によれば、国分市の全域、姶良郡隼人はやと町の東部、霧島町の南部、牧園まきぞの町の南東部、福山町の全域、垂水市の北端部、財部町(北東部を除く)末吉町の全域、大隅町(南端部を除く)輝北町(南部を除く)となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報