大宮町(読み)おおみやまち

日本歴史地名大系 「大宮町」の解説

大宮町
おおみやまち

[現在地名]大宮市浅間町せんげんちよう吉敷町きしきちよう下町しもちよう仲町なかちよう東町あずまちよう堀の内町ほりのうちちよう高鼻町たかはなちよう寿能町じゆのうちよう大門町だいもんちよう宮町みやちよう土手町どてちよう桜木町さくらぎちよう錦町にしきちよう植竹町うえたけちよう盆栽町ぼんさいちよう天沼町あまぬまちようなど

大宮台地の中心部に位置し、東部は見沼の沖積低地で、しば川を境に土呂とろ村と接し、南は村内東部を南流する見沼代用水(西縁)から分水した高沼こうぬま代用水が西流し、北袋きたぶくろ村と境する。西は中小村田なかこむらだ村など、北は土手宿どてじゆく村・高鼻村など。中世には高鼻郷あるいは大宮郷に含まれ、戦国期には寿能城主潮田氏の支配下にあった。江戸時代には中山道の宿駅で、大宮領に属した(風土記稿)。天正一九年(一五九一)七月、栗生新右衛門は徳川家康から岩筑いわつき領「大宮之内」二九五石余など合せて一千五〇〇石を宛行われている(「伊奈忠次等連署知行書立」御感証文集)。栗生新右衛門については不詳。同二〇年伊奈忠次によって検地が実施された。同年四月の高郷大宮之村御縄打水帳写(小島家文書)が一冊残るが、何冊か作成された検地帳を書抜き一冊に編集したとみられ、断片的で全貌は不明。同水帳写では地積は大半小で記されているが、畝歩換算をすると田四町余・畑四五町三反余が確認される。名請人は一五人で、うち大塚は一八町三反余を名請している。一町以上の名請人は一一人。名請人のなかに氷河・神主・潮田などの名がみえ、氷河・神主は氷川神社に関係する者、潮田は戦国期の潮田氏にかかわる者と思われる。ほかにも姓で名請している者が大塚を含め一〇人おり、戦国期の小田原北条氏の給人か、潮田氏の家臣かとも考えられる。文禄三年(一五九四)旗本疋田氏は大宮之村の一部を宛行われ(「疋田喜右衛門様御知行分之帳」小島家文書)、正保(一六四四―四八)頃までに土手宿村として分村した(田園簿)。天正一九年に大宮の内で寄進された氷川神社領一〇〇石も、慶長七年(一六〇二)には高鼻村として分立している(「徳川家康寄進状写」西角井家文書)

慶長七年中山道に宿駅の制度が設けられた。「風土記稿」には中山道が開かれた頃、伊奈忠次によって百姓屋敷四二軒の地子が免除され、人馬継立をするようになったとある。しかし天明六年(一七八六)の当宿七組発端(栗原家文書)によると、天正一九年栗原家の先祖が宿駅業務と地子免除を願出たさい宿駅には指定されたが、地子は免除されなかったという。中山道はかつては氷川神社の参道を通り、同社西側を通って裏大門を左折し北上する道筋であったというが(風土記稿)、異説もある(栗原家文書)

大宮町
おおみやまち

[現在地名]富士宮市大宮・宮町みやちよう宝町たからまち西町にしまち貴船町きぶねちよう淀川町よどがわちよう朝日町あさひちよう光町ひかりちよう北町きたまち豊町ゆたかちよう元城町もとしろちよう・大宮町・浅間町あさまちよう錦町にしきちよう中央町ちゆうおうちよう東町ひがしちよう田中町たなかちよう神田川町かんだがわちようなど

富士山の南西麓、潤井うるい川中流左岸の平地に立地する。富士山信仰の中心であった大宮浅間社(富士浅間社とも。現富士山本宮浅間大社)門前町として、また右左口うばぐち(中道)の宿駅として発展した。

〔中世〕

文永一一年(一二七四)五月と推定される一七日付の日蓮書状(日蓮聖人遺文)によれば、佐渡での流人生活を許された日蓮は甲斐身延みのぶ山に向かい、同月一四日東海道の「くるまかへし」(比定地は現沼津市)を立ち、一五日に「ををみや」に宿し、翌日身延街道の南部なんぶ(現山梨県南部町)に至っている。当地は東海道の吉原よしわら宿(現富士市)から分岐し、甲斐府中(現山梨県甲府市)に至る右左口路の宿駅であり、また南部へ至る道のほか、東海道の蒲原かんばら宿(現蒲原町)へ至る道も通じている要所であった。なお天文一八年(一五四九)一二月一三日の今川義元判物(浅川井出文書)によれば、義元は井出善三郎の大宮屋敷半分の諸役を免除し、永禄四年(一五六一)閏三月一〇日、今川氏真も善三郎の息子千熊に同様に免除しており、井出氏の屋敷地があった(「今川氏真判物」同文書)。天文二三年四月二四日の今川義元判物(同文書)によれば、当地には今川氏の「大宮代官」がおかれていた。これは「富士大宮司分代官職」とも記され、年来村山むらやま浅間社つじ坊の葛山甚左衛門尉(頼秀)が任じられていたが、永禄四年七月二〇日、氏真は葛山氏の代官職を罷免し、新たに大宮城城代に浅間社大宮司の富士信忠を任じている(「今川氏真判物」同文書)

大宮町
おおみやちよう

面積:六八・八〇平方キロ

中郡のほぼ東半部を占める。北東の高尾たかお山・つづみヶ岳の連山を背に、久住くすみ川・五十河いかが川が三重みえ谷で竹野川に注いで沖積地が開け、さらに北に流路を変える竹野川流域の中郡平野が町の中央部で開ける。町の西方は磯砂いさなご山・鞍禿くらはげ山の連山が南北に延び、磯砂山を背に竹野川の支流常吉つねよし川の沖積地が開ける。

町域は東西一三・五キロ、南北一一・三キロ。およそ西は中郡平野を按分して峰山みねやま町、北は竹野郡弥栄やさか町、東は宮津市・与謝郡岩滝いわたき町、南は水戸谷みとだに平治へいじ両峠を境に与謝郡野田川のだがわ町に接する。

大宮町
おおみやちよう

面積:一〇〇・七八平方キロ

紀伊山脈の分岐嶺を境として東に度会町、南に南島なんとう町・紀勢きせい町、北西は宮川・大内山おおうちやま川を隔てて多気たき大台おおだい町に隣接する。町域の九割を山地が占め、奥伊勢宮川峡県立自然公園に属する景勝地。七保ななほのオハツキイチョウは県指定天然記念物。浅間せんげん(七三三・五メートル)によって東は旧七保村、西は旧滝原たきはら町に二分される。町楽ちようらく(七八四・三メートル)七洞ななほら(七七八・三メートル)国見岩くにみいわ(七三四メートル)の峰々は、「皇太神宮儀式帳」にある伊勢神宮神界四至に示された南境で伊勢・志摩の国境であった。

大宮町
おおみやまち

面積:八二・七三平方キロ

那珂郡のほぼ中央にあり、東は久慈川の東岸で久慈郡金砂郷かなさごう村に、西は那珂川を挟んで東茨城郡桂村と御前山ごぜんやま村、緒川おがわ村に、南は那珂町と瓜連うりづら町に、北は山方やまがた町と美和みわ村に接する。久慈川と那珂川に挟まれた丘陵地で、集落はその河岸段丘上に立地する。町の中心部を国鉄水郡線と国道一一八号が南北に走り、これに常陸太田市から栃木県宇都宮市に至る国道二九三号が東西方向で交差する。

大宮町
おおみやちよう

上京区今出川通東入

町の東は河原町かわらまち通、北は今出川いまでがわ通。元禄四年(一六九一)京大絵図はこの付近に「真如堂百五石、慈覚大師開基」と記す。今出川通以南、寺町通以東の方二町の地は、豊臣秀吉の命で移建された天正一五年(一五八七)から、浄土寺真如じようどじしんによ(現左京区)に移る元禄六年まで、真如堂の境内地で、大宮町はその北東部にあたる。

寛永以後万治以前京都全図に「大宮町」とみえる。「坊目誌」は「大宮町は元、大宮二条辺にあり。慶長七年二条城を築くとき、大宮通丸太町下る町に移る。

大宮町
おおみやちよう

上京区上ノ下立売御前通西入

東西に通るかみ下立売しもたちうり通を挟む両側町。西は天神通てんじんみち(旧西靫負小路)。平安京の条坊では、右京一条二坊一保二町の南から二保三町の北の地で、官衙町の一つ「右近衛町」の跡地(「拾芥抄」西京図)。平安中期以降は近衛大路西大宮このえおおじにしおおみや大路西側の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「大宮丁」とあり、寛文五年(一六六五)刊「京雀」は当町を中心とした一画を「西の京」と記す。

大宮町
おおみやちよう

下京区七条通木屋町東入下ル共

南北に通る木屋町きやまち通に西面する片側町、町の南方を東西に七条通(旧七条大路)が通る。

平安京の条坊では、左京七条四坊三保一三町西側及び同八条四坊四保一六町西北隅、平安中期以降は七条富小路の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「大宮丁」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報