桑原村(読み)くわばらむら

日本歴史地名大系 「桑原村」の解説

桑原村
くわばらむら

[現在地名]更埴市桑原

北国西往還をさる馬場ばんば峠より下った麓にあり、東に八幡やわた村、北に稲荷山いなりやま村に接する。村誌では「和名抄」の小谷おうな郷に属し、小谷庄内にあったと伝う。村内に中原なかはら大田原おおたはらの集落も存する。村名の初見は康正二年(一四五六)諏訪御符礼之古書で、

<資料は省略されています>

とあり、桑原幸光が諏訪神社五月会の頭役、御符之礼などを務めている。なお寛正三年(一四六二)四月、文明六年(一四七四)五月にも、ほぼ同様に幸光が諏訪神社の頭役等を務めた記録がみえる。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]西区桑原

元岡もとおか村の北、糸島いとしま半島東部を占める丘陵地の東端にある。志摩しま郡に属する。東は今津いまづ村、北は草場くさば村。近世前期に干拓が実施されるまで南東部は入海に面していた。村域中央、東に向かって開く谷筋を幸川(現大原川)が流れ、谷筋を出てからは今津村境に沿って南東に流れ、入海に注いでいた。安楽寺(太宰府天満宮)領桑原庄の遺称地。天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)では田三八町五反余・畠二一町二反余。小早川時代の指出前之帳では桑原村の田四一町八反余(分米四六一石余)・畠三五町九反余(分大豆一四〇石余)。慶長三年(一五九八)分の志摩郡物成帳(朱雀家文書)では高六〇一石余、物成五〇三石余、うち大豆一二六石余。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]岡崎市桑原町

村域の南部は山地で、中世寺院の曹洞宗大沢山竜渓りゆうけい院がある。北部は矢作川支流のともえ川で旧加茂郡との郡境となる。巴川左岸の足助あすけ街道沿いに集落が立地。また村域内を東に向かう奥殿おくとの道が通る。東は奥殿村、西は細川ほそかわ村、南は奥山田おくやまだ村と各々山で接する。北は岩倉いわくら村・中垣内なかがいと(現豊田市)と巴川および枝流の郡界ぐんかい川で境する。

中世、細川庄に属すという。享和三年(一八〇三)御用郡村仮名付帳(上宮寺文書)に「額田郡之内細川庄桑原村道場観音堂」とある。明応二年(一四九三)井田野いだの合戦の戦功で細川城主の大給おぎゆう松平氏の祖乗元が奥殿・桑原を松平宗家より加増されたという(豊田市史)。延宝三年(一六七五)成立の「嶋邑家根元慶圀記」(島村家文書)に元亀二年(一五七一)武田勢がなか(現豊田市)のねむり堂を焼き、桑原に向かって岡崎衆に敗退すとある。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]松山市桑原町くわばらまち・桑原一―七丁目・束本つかもと一丁目・正円寺しようえんじ三丁目・樽味たるみ三丁目

松山平野の東南平坦部に位置する農村。東は畑寺はたでら村・正円寺村。西は新百姓しんひやくしよう村と草葉くさば川で境し、南は三町さんぢよう村・松末まつすえ村、北は正円寺村・樽味村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「桑原村 新百性共ニ」とある。

古代には温泉郡桑原郷(和名抄)に属していた。河野系図に「玉澄―益男―真勝―深躬桑原村館―興村同新館」とあり、また「通清―通員―壬生七右衛門通倫―景通桑原清右衛門」とみえる。しかし前者の記述は伝承と解すべきであろう。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]三田市桑原

高次たかすぎ村の東、武庫むこ川左岸の三田盆地と丘陵山麓部の平坦地に立地する。東は川辺かわべ波豆はず(現宝塚市)、南は生野いくの(現神戸市北区)に接し、北の山田やまだ村をすっぽり囲む地形である。なお東は北のむかい山から南の大岩おおいわ岳を結ぶ線が境界。中世は松山まつやま庄のうち。元亨四年(一三二四)五月日の某袖判公文職補任状(松山文書)によると、左衛門尉源康仲が「摂津国松山庄内桑原村」の公文職に補任されている。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]甘木市桑原

鎌崎かまさき村の北東、佐田さだ川と荷原いないばる川との間に展開する平野部に位置する。下座げざ郡に属し、東は田島たしま村、南は坂井さかい村・四郎丸しろうまる村、北は屋永やなが村。江戸時代を通じて福岡藩領。明徳三年(一三九二)一二月一八日の筑前下座郡内除名分目録(阿蘇家文書/南北朝遺文(九州編)六)に「桑原名」とみえ、同名四五町余は阿蘇あそ(現熊本県一の宮町)大宮司阿蘇氏の被官と思われる桑原氏の知行分であった。なお天授二年(一三七六)には阿蘇惟武に「下座郡内桑原跡」を与えることが約束されている(同年一〇月一三日「征西将軍宮令旨」同文書/南北朝遺文(九州編)五)

桑原村
くわのはらむら

[現在地名]三島町桑原

宮下みやした村の南西五町余にあり、只見ただみ川河岸段丘原に立地する。村の北二町を伊北いほう街道が通る。南の大谷おおたに川支流倉掛沢くらかけざわ川を越えて大谷村に至る経路を分岐し,船渡しで北の只見川を名入ないり村端村高清水たかしみずに渡し、野沢のざわ(現西会津町)への西方にしかた街道に継いだ。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「桑野原 六十八石四斗二升 森信濃」とあり、「会津鑑」は「桑ノ原」と記す。

戦国期の桑原村は横田よこた(現金山町)の山内氏直領で、曾利間そりま(楚利間)の館に二瓶安左衛門が住み(会津四家合考)、室町期には宮下大膳の家臣菅家雅楽助が住んだといわれ(「桑原二瓶氏系図」河越家文書)、菅家氏は近世初頭肝煎を勤めた。

桑原村
くわはらむら

[現在地名]函南町桑原

来光らいこう川上流に位置する。南は大竹おおだけ村、北は山中やまなか新田(現三島市)、西は竹倉たけくら(現同上)。中世桑原郷の遺称地。文禄三年(一五九四)七月代官頭伊奈忠次による検地があり高二八六石余。同月一三日の検地帳(森家文書)の表紙に「君沢郡桑原村」と書かれ、近世初頭は君沢くんたく郡に属していた。田方二三二石余・二七町三反余、畑方五四石余・八町四反余、屋敷一町二反余。元禄郷帳によると高二九〇石余。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]青谷町桑原

澄水すんず村の南、勝部かちべ川の最上流域に位置する。枝郷に寺内てらうちがあり、西方の川上かわかみ峠を越え伯耆国河村かわむら郡川上村(現東郷町)に至る道が通じる(因幡志)。拝領高は一四八石余、本免は六ツ九分。藪役銀九匁が課せられていた(藩史)。「因幡志」では家数五〇。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高一七八石余、竈数四六。産物は鼻紙(因幡志)山根やまね村・河原かわら村で漉いていた御用紙の原料となる楮の産地で、年貢の一部は楮請米として翌年五月までの延納が認められていた。元文元年(一七三六)には年貢のうち四四石余が翌年五月納であったが、楮請米はのち停止された。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]和泉市桑原町・芦部あしべ

観音寺かんのんじ村の北、槙尾まきお川の右岸にある。当地の高野山真言宗西福さいふく寺には雷を封じ込めたという伝えをもつ雷井戸があり、雷除けの呪文「桑原々々」は当地の地名によるという(和泉市史)。また当地は東大寺大勧進俊乗坊重源の出身地という伝えがあり(泉州志など)、墓が西福寺にあると記すものもある(和泉名所図会)。当村の用水の多くは槙尾川に設けられた「東風川井」から引水していたが、槙尾川の水が不足した際には谷山たにやま池の樋を抜いて槙尾川に水を流した。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]大任町今任原いまとうばる

現大任町の北部に位置し、北東部と南西部の二地に分れ、その間を北の下今任村と南の上今任村が横断している。南西部が本村という。「宇佐大鏡」にみえる散在常見名田のうちに「桑原有吉田数同時定五丁」とあり、宇佐宮領であった。延慶二年(一三〇九)六月一二日の鎮西下知状(佐田文書/鎌倉遺文三一)によれば、宇都宮頼房は当地を本拠地とする桑原道兼による柿原かきばる名買得が頼房の父道空の遺命に背くため、無効であるとして鎮西探題に訴えた。

桑原村
くわはらむら

[現在地名]小田原市桑原

西に酒匂さかわ川、東に鬼柳おにやなぎ堰が流れ、南は成田なるだ村、東は延清のぶきよ村、北は足柄上あしがらかみ郡鬼柳村に接する。東を小田原道、南西を富士道が通る。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一〇月一六日条によれば、鎌倉鶴岡八幡宮若宮で始められた長日勤行の供料所として「相模国桑原郷」が寄進されている。建長元年(一二四九)六月三日の関東御教書(県史一)によれば、「相模国西桑原郷」の役夫工米を他の計らいで弁済させるように政所に命じている。永正一六年(一五一九)四月二八日の宗瑞(伊勢長氏)箱根領注文(県史三)には「はこねりやう別たうかんにん分さい所」として「廿八くわん文 くわ原」とあり、小田原衆所領役帳には島津孫四郎「百七十貫文 西郡桑原郷」、島津又二郎「五拾貫文 桑原郷内」とある。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]大山町桑原

常願寺川と熊野くまの川の中間にあって、扇状地の扇央のため最も水利が悪く開拓も遅れた。東は親村田畠たばたけ村、西は上千俵かみせんびよう(現富山市)、南は下大浦しもおおうら村。地名は桑を多く栽培したところから生じた。明暦二年(一六五六)の村御印では草高三五石、小物成は桑役一一九匁(村々御印物等書上)。加賀藩領から万治三年(一六六〇)以降富山藩領。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳の枝村新田の項に村名がみえ、田畠村之枝村新田として高一四六石とある。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高五〇石余。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]篠山市桑原

本郷ほんごう村の北に位置し、北西に箱部はこべ峠がある。中世には桑原御厨とみえる。「古今著聞集」巻二〇の「蔵人所下人末重等丹波国桑原の山にして大蛇の難に遭ふ事」には「後堀河院御位の時、所下人末重、丹波国桑原の御厨へ、供御備進のためにくだりけるとき、件みくりやに山あり、その山にわさびおほくおひたるよしをきゝて、ともにまかりけり」として、蔵人所の末重が桑原御厨内の山に山葵を取るために入り、同道した山伏とともに大蛇に遭遇した話を載せている。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]会津若松市大戸町おおとまち大川おおかわ

阿賀川東岸にあり、北は船子ふなこ村、西の対岸は沼尾ぬまお(現下郷町)、南の対岸は小出こいで(現同上)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の南山みなみやまのうちにあり、高九七石余。寛永二〇年(一六四三)より南山御蔵入領となる。小出組に属し、文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高一二九石余。化政期の家数一八(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数二〇・人数一二五(人員録)。同八年船子村と合併して大川村となる。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]青森市桑原

戸崎とざき村の北、東岳あずまだけ山地の縁辺部にある。寛文四年(一六六四)の高辻帳に高一一七石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳には、田方三四町七畝二〇歩、畑方五町二畝一五歩、田畑屋敷合せて三九町一反五歩、村高二四〇・九七二石とある。田地が畑地の六倍以上の面積を占めるが、下田・下々田がそれぞれ一八町二反余・一一町二反余で生産力は高くない。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]稲武町桑原

名倉なぐら川が東へ湾曲する左岸にある。黒田くろだ川が東流してこの地で名倉川に合流する。対岸は稲橋いなはし村。寛永一三年(一六三六)までは武節一一ヵ村のうち川西六ヵ村の一。幕末の戸口は三五戸・一四〇人、村高一一〇石余(北設楽郡史)

黒田川に臨む段丘上に中村なかむら遺跡がある。縄文前期の諸磯式と考えられる土器や中期の加曾利E式、後期の堀之内式・加曾利B式、晩期の水神平式と推定される土器のほか、石器や天狗棚てんぐだな産の黒曜石がみられた。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]金津町桑原

清間せいま村の南東にあり、竹田たけだ川左岸の自然堤防上に位置する。古くは東大寺領桑原庄の地。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では長畝のうね下郷に属しており、「越前国名蹟考」にも長畝郷の村と記載されている。寛永元年(一六二四)以降丸岡藩領。村名は正保郷帳にみえ、田方五二八石余・畠方六五四石余。天保九年(一八三八)の御領分高免牛馬男女竈改帳(高椋家文書)によれば戸数八三、馬一四匹。明治五年(一八七二)には九〇軒(農八二・僧一・大工五・木挽二)。正保郷帳に「水損日損所」とあり、用水・排水に苦慮したらしい。

桑原村
くわのはらむら

[現在地名]茨木市桑原

安威あい村の北に位置し東と西は標高二〇〇メートル前後の丘陵地で、その間を南流する安威川の谷間に集落を形成。「日本書紀」安閑天皇元年閏一二月四日条にみえる「上桑原・下桑原」を当村付近にあてる説があり、「新撰姓氏録」(摂津国諸蕃)に「桑原史 桑原村主同祖、高麗国人万徳使主之後也」とある桑原史の本貫地とも考えられる。中世は安威庄に属したとみられる。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に五二六石余の「桑原・桑原村」がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳には幕府領(北見勝忠預)で絵図と同高の「安威庄・桑原」が記される。しかし江戸時代中期まで行政的には十日市とおかいち村とともに安威村に一括され、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳にも「安威村十日市場・桑原村」とみえ、元禄郷帳も安威村のみあげて桑原・十日市両村はみえない。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]加茂町桑原

加茂川左岸にあり、東は公郷くごう村、西は中原なかばら村、北は小淵おぶち村に接し、倉見くらみ川と加茂川の合流地域に耕地が広がる。広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の文明一四年(一四八二)八月一〇日の檀那村書(肥塚家文書)に「きりはたくわはらの衛門」とみえ、天文一四年(一五四五)二月吉日の檀那村付帳(同文書)にも「一くわはら村一ゑん」とある。正保郷帳に高三七四石余、うち田方三二三石余・畑方五〇石余とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一〇八石余・開高二六石余。「東作誌」では同高で本田畑高四七三石余・新田畑高二六石余・新開田畑高八石余、家数四六・人数一六〇。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]美里町沼上ぬまがみ

北東流する身馴みなれ川南岸の水田地帯に位置し、条里の区画が残っていたが、圃場整備により現在は消滅。北は十条じゆうじよう村、東は阿那志あなし村、南は那賀なか駒衣こまぎぬ村、西は沼上村。田園簿では田方八一石余・畑方二一石、旗本戸田領。なお慶長七年(一六〇二)戸田領となって以後、沼上村と同様に幕府領と戸田領を交互に繰返したという(瀬戸家文書)

桑原村
くわばるむら

[現在地名]大野町桑原

庄屋しようや村の南、平井ひらい川支流北園きたぞの川東岸にある。伝承ではあるが「豊後国志」によれば、当地には古代桑原屯倉があったとされる。正平九年(一三五四)一二月七日の平行宗寄進状(阿蘇家文書)に「桑原上下」とみえ、大友貞宗の子行宗から桑原上下名の地頭職などが肥後阿蘇社に寄進されている。また同時に寄進された羽歩はぶ名は当村の字羽部はぶに比定される。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]加賀市桑原町

しよう村の南東、動橋いぶりはし川と宇谷うだに川の合流点左岸に位置する。文明年間(一四六九―八七)蓮如が当村弥右衛門(現中栄氏)方に道場を設け、その子孫弥平は石山合戦のとき鈴木重幸に従って参戦したが戦死したと伝える(「打越勝光寺縁起」江沼郡誌)。正保郷帳によると村高八四五石余、田方三九町九反余・畑方一三町九反余、物成高三六七石余。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]飯高町桑原

加波かば村の北西にあり、櫛田くしだ川とその支流月出つきで川が当村で合流する。寛永一八年(一六四一)検地帳(徳川林政史蔵)に「桑原村」と記されている。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数二〇、人数一一三、産物は煎茶・串柿・芋茎である。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]和田山町桑原

枚田岡ひらたおか村の北東、与布土ようど川の右岸に位置する。山陰道筋の村。中世は枚田郷のうちで、永享二年(一四三〇)に同郷内に村名がみえる。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高三二〇石余。幕府領として推移したと考えられる。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]取手市桑原

北相馬台地の東の純農村。西北は寺田てらだ村。桑原村調帳(佐々木正治文書)によれば寛永一九年(一六四二)より天領、正徳元年(一七一一)より旗本本多氏知行地、享和三年(一八〇三)より天領、文化七年(一八一〇)より旗本村越氏知行地。文政一〇年(一八二七)の相馬郡地頭并村高調帳(長塚家文書)によれば旗本本多作左衛門知行地六一四石余・村越茂助知行地六〇石余・高木善十郎知行地二六四石余の三給。

桑原村
くわばらむら

[現在地名]朽木村桑原

針畑はりはた川上流山間部にあり、北の上流は古屋ふるや村。中世は針畑庄に属した。「和名抄」の高島郡桑原郷の遺称地とする説があるが、山間部すぎて適当と思われない。寛永石高帳では高一〇七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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