立花宗茂(読み)たちばなむねしげ

精選版 日本国語大辞典 「立花宗茂」の意味・読み・例文・類語

たちばな‐むねしげ【立花宗茂】

安土桃山・江戸初期の武将筑前国(福岡県)の人。初名統虎(むねとら)剃髪して立斎という。立花城主戸次(べつき)鑑連(道雪)の養子島津氏豊後侵入を防いで以来秀吉に認められ、文祿・慶長の役などで功をあげた。関ケ原の戦で豊臣方につき所領没収、のち奥州棚倉(福島県東白川郡棚倉町)に移封された。大坂夏の陣後柳川城主に返り咲いた。永祿一一~寛永一九年(一五六八‐一六四二

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デジタル大辞泉 「立花宗茂」の意味・読み・例文・類語

たちばな‐むねしげ【立花宗茂】

[1569~1643]安土桃山・江戸初期の武将。筑後柳川城主。豊臣秀吉に仕えて文禄の役慶長の役活躍関ヶ原の戦い西軍に属して敗れ、のち、徳川家康に仕えた。大坂夏の陣後、柳川城主に復帰

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「立花宗茂」の意味・わかりやすい解説

立花宗茂
たちばなむねしげ
(1569―1642)

安土(あづち)桃山時代~江戸初期の大名。筑後(ちくご)(福岡県)柳川(柳河)(やながわ)藩藩祖。高橋紹運(じょううん)長男。永禄(えいろく)12年豊後(ぶんご)(大分県)に生まれる。1580年(天正8)立花鑑連(あきつら)の養子となり、85年家督を継いだ。86年九州の諸大名に先だって豊臣(とよとみ)秀吉に服し、翌年の九州征伐には先鋒(せんぽう)を務めた。その戦功により柳川13万石余を与えられ、従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に叙任、左近将監(さこんしょうげん)と称した。秀吉の小田原攻略、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に参戦。関ヶ原の戦いで西軍に属して、改易されたが、1603年(慶長8)徳川秀忠(ひでただ)に召し出されて、陸奥棚倉(むつたなぐら)(福島県棚倉町)に1万石を与えられた。1610年3万石に加増。大坂冬・夏の陣に参戦。20年(元和6)柳川城主となっていた田中氏の絶家・改易で、ふたたび柳川周辺に10万9000石余を与えられ、旧領のほとんどを回復した。22年飛騨守(ひだのかみ)。37年(寛永14)隠居。38年島原・天草一揆(いっき)の鎮圧に参加。その後剃髪(ていはつ)して立斎(りゅうさい)と号した。室は立花鑑連娘、のち離婚して家臣矢島秀行(やじまひでゆき)娘を継室とし、その没後葉室頼宣(はむろよりのぶ)娘をめとった。

[荒野泰典]

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改訂新版 世界大百科事典 「立花宗茂」の意味・わかりやすい解説

立花宗茂 (たちばなむねしげ)
生没年:1568-1642(永禄11-寛永19)

豊臣期・江戸初期の武将。筑後柳河藩主。初名は宗虎,統虎。剃髪後,立斎と号した。父は高橋紹運。立花鑑連(あきつら)(戸次道雪(べつきどうせつ))の養子となり,1585年(天正13)立花城主。87年豊臣秀吉の九州平定に功をたて,筑後山門(やまと)郡等4郡13万2000石を与えられ柳河城主。朝鮮の役では碧蹄館の戦で名を挙げた。関ヶ原の戦では西軍に属したため所領没収,のち奥州棚倉に移封されたが,大坂の陣の功で1620年(元和6)旧領5郡10万9600石に復領した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立花宗茂」の意味・わかりやすい解説

立花宗茂
たちばなむねしげ

[生]永禄12(1569).8. 豊後
[没]寛永19(1642).11.25. 江戸
安土桃山,江戸時代初期の大名。筑前岩屋城主高橋紹運の子として生れ,筑前立花城主立花道雪の養子となる。初名は統虎 (むねとら) 。号は立斎。豊臣秀吉に仕え九州征伐の際の功により天正 15 (1587) 年筑後柳川で 13万 2200石を与えられた。関ヶ原の戦いには西軍に属し,所領を没収されたが,慶長8 (1603) 年陸奥棚倉1万石に封じられ,元和6 (20) 年柳川 10万 9600石に復した。 (→柳川藩 )

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「立花宗茂」の解説

立花宗茂 たちばな-むねしげ

1569-1643* 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)12年8月13日生まれ。高橋紹運の長男。戸次(べっき)(立花)鑑連(あきつら)の養子。豊臣秀吉の九州平定に従軍,天正(てんしょう)15年筑後(ちくご)(福岡県)柳河(やながわ)城主となる。関ケ原の戦いで西軍に属し所領を没収されたが,のち陸奥(むつ)棚倉藩(福島県)藩主をへて,大坂の陣の戦功で元和(げんな)6年旧領を回復し柳河藩主立花家初代となった。10万9600石。寛永19年11月25日死去。74歳。初名は統虎。号は立斎。

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367日誕生日大事典 「立花宗茂」の解説

立花宗茂 (たちばなむねしげ)

生年月日:1569年8月13日
安土桃山時代;江戸時代前期の武将;大名
1643年没

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世界大百科事典(旧版)内の立花宗茂の言及

【棚倉藩】より

…戦国時代は,常陸の佐竹氏の領域で,赤舘に出城が設けられていたが,関ヶ原の戦後,一時幕領となる。1603年(慶長8)立花宗茂が2万5000石で入封し藩をおこした。22年(元和8)丹羽長重が入封し,赤舘に代わって棚倉城を築城したが建設途上で転封され,27年(寛永4)磐城平藩主内藤氏の一族内藤信照が5万石で入封して,本格的な藩体制確立の諸政策を打ち出した。…

【筑後国】より

…【佐伯 弘次】
【近世】

[政治]
 1587年九州平定を終えた豊臣秀吉によって〈国割り〉が実施され,筑後は北部が小早川隆景(2郡。生葉,竹野等の諸説がある),毛利秀包(ひでかね)(山本,三潴等),南部が立花宗茂(山門,三池,下妻等),筑紫広門(ひろかど)(下妻)に分け与えられた。 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦の後,豊臣方に属した毛利秀包,立花宗茂,筑紫広門はいずれも改易された。…

【柳川[市]】より

…戦国時代,蒲池氏がここに城を築いていた。1587年(天正15)立花宗茂が入部,1600年(慶長5)筑後一国を領した田中吉政が城主となり,城郭を拡大し,城下町を建設した。20年(元和6)立花宗茂が再入部した。…

【柳河藩】より

…10万9600石。1587年(天正15)筑前立花城を居城とする立花宗茂が,豊臣秀吉の九州征伐ののち筑後柳河に配置されて成立し,石高は13万2200石。宗茂は関ヶ原の戦で西軍に味方したため改易となり,代わって1600年(慶長5)三河岡崎から田中吉政が入封し,筑後一国を支配し,石高は32万5000石。…

※「立花宗茂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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