船津町(読み)ふなつまち

日本歴史地名大系 「船津町」の解説

船津町
ふなつまち

[現在地名]長崎市恵美須町えびすまち

いま町の北東、岩原いわはら川河口の左岸にある長崎うち町の一ヵ町で、船手に属した。町並は東西に形成され、東は小川おがわ町に隣接する(享和二年長崎絵図)。天正一三年(一五八五)より文禄元年(一五九二)にかけて開かれたとされ、豊臣秀吉直轄領となり、地子銀が免除された。当初は内船津うちふなつ町とも称された。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「舟津町」のキリシタン「はびあん」「へいとろ」「がらしや」が署名している。また「向舟津町」の「ふらんしすこ」もみえる。寛永長崎港図では内町として「船津町」と記される。寛永一二年(一六三五)をはじめ向舟津町衆が伊勢参宮を行っている(「御参宮人抜書」橋村家文書)

船津町
ふなつまち

[現在地名]中央区天神てんじん三―五丁目

南北に走る鍛冶かじ町の北部から東に延びる通りの両側町で、北は博多湾、東は那珂なか川河口に臨み、「加子やしき」が立並んでいた(福岡博多近隣古図)。町の東側を須崎すざき、那珂川沿いの南北の通りを須崎土手とよんだらしい。明治三二年(一八九九)の福岡城下図(福岡市博物館蔵)は東側の南北の通りを殿との町、北側の東西の二本の通りをうら町と記している。

船津町
ふなつまち

[現在地名]鹿児島市船津町・千日町せんにちちよう新町しんまちなど

呉服ごふく町の南に位置し、東はしん町、南は松原通まつばらどおり(鹿児島県地誌)しも町一二町の一。天保城下絵図では呉服町の東方、会所かいしよ小路こうじに続いて町名がみえる。安永三年(一七七四)菩薩ぼさつ小路から出火(旧記雑録)。文政五年(一八二二)には菩薩堂ぼさど通から出火して南林なんりん寺門前浜手まで焼失する大火があった(新納久仰雑譜)

船津町
ふなつまち

[現在地名]島原市弁天町べんてんまち

島原城の南東魚屋うおや町の東に位置し、海に突き出す形で町域を形成する。大湊の一部をなし、地内に往来番所があった。延宝五年(一六七七)「島原城下船津」からの失火で二〇〇余軒が延焼施粥に一千三〇〇余人が押寄せたという(深溝世紀)。宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内村明細帳ではしん町別当の管轄五ヵ町として「船津町」がみえ、制札場および遠見番所が置かれていた。天明三年(一七八三)の延焼火災で町はほぼ全焼したという。寛政四年(一七九二)島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)では長さ三〇間、また船津として二〇間・二八間の二つの町並が描かれるのは有馬船津ありまふなつ浦田船津うらだふなつなどに相当するのであろう。

船津町
ふなつちよう

[現在地名]大正区三軒家東さんげんやひがし一丁目

現大正区の北東端に位置し、東を木津きづ川が南流する。「天保町鑑」には「木津川筋勘介じま之内上之丁」とある。貞享元年(一六八四)大川の改修工事によって収公された天満てんま一丁目(現北区)の浜側の町屋に与えられた替地。川本かわもと町・臼井うすい町とともに荒地であったため開発が遅れ、三町とも家造りが完成したのは元禄四年(一六九一)頃という(大阪市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報