東原村(読み)ひがしはらむら

日本歴史地名大系 「東原村」の解説

東原村
ひがしはらむら

[現在地名]安佐南区祇園ぎおん町東原

東境を太田おおた川が南流し、対岸は安芸郡戸坂へさか(現東区)であるが、その南側(現太田川ゴルフ場の辺り)に飛地がある。太田川の流路変更のために分断されたものである。平地で山林はなく、北は高宮たかみや東野ひがしの村と中筋古市なかすじふるいち村、西と南はふる川を挟んで西原にしはら村に接する。水害を被ることが多かったが、近年の河川大改修で解消した。しかし広大な洪水敷確保のために川沿いの村地は失われ、景観は大きく変わった。「和名抄」の安芸郡幡良はら郷は当地および西原の地域に比定され、当地の条里遺構の地割は対岸の戸坂方面と共通し、古く安芸郡に属していたことが裏付けられる。

正治元年(一一九九)一二月日付の伊都岐島社政所解(新出厳島文書)の同社日御供田一五町のなかに、はら郷九段一二〇歩がみえ、次いで文暦二年(一二三五)六月五日の関東下知状案(同文書)では、安芸守護藤原親実に「原郷佐東郡本安南郡地頭職」などを領知させている。同月一〇日の某書下案(厳島野坂文書)も、「守護并在国司分」として原郷を「佐東本郡・安南本郡・散在名田畠」と並列にあげる。弘長三年(一二六三)の安芸国新勅旨田損得検注馬上帳案(東寺百合文書)は原郷分二町八段一二〇歩をあげ、「日下・上長田・下長田・小原」の地名を記し、弘安一〇年(一二八七)頃の同帳案(白河本東寺百合文書)もこれを踏襲している。

東原村
ひがしばらむら

[現在地名]一宮町東原

かね川扇状地に位置し、南は国分こくぶ村。枝郷に林部はやしべ鷺堂さぎどうがある(甲斐国志)。古代山梨郡林部はやし(和名抄)、中世林部郷の遺称地。慶長古高帳に村名がみえ高三七四石余、幕府領。ほかに鷺堂領五石余・天神領一石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本安藤・斎藤の二家がみえ、元禄郷帳では同じ二家領と小玉しようぎよく寺領・天神領。両氏とも寛永一〇年(一六三三)に宛行われたと考えられる(「寛政重修諸家譜」など)。宝永二年(一七〇五)甲府藩領、同七年から甲府新田藩(松平経隆)領となり(「柳沢刑部・式部少輔御知行付村」若尾資料)、享保九年(一七二四)幕府領石和代官支配。

東原村
ひがしはらむら

[現在地名]玉城町はら

外城田ときだ川の上流、町域の西端にある。集落の北側には条里制遺構が認められ、西里・中里・東里・一ノ町・二ノ町・三ノ町などの字名が残る。「神鳳鈔」に「原御薗大林村、外宮田畠、段別五升、二升五合」とある。皇大神宮摂社の朽羅くちら神社があり、集落と伊勢神宮との関係は深い。遷宮と三節祭の折に松明を掲げるお松明株の家柄が三家、鳥名子舞を奉納するとき弾と笛の神楽を担当する鳥名子神役一八家があり、神役人と称していた。

当村は熊野街道に沿い、近世は参宮者と熊野道者で賑い茶屋が繁盛した。「西国三十三所名所図会」には「原大辻観音庵」と「順礼導引観世音」がみえる。集落の南方約三キロの国束くづか山には天台宗国束寺があった。

東原村
ひがしばらむら

[現在地名]沼津市東原

愛鷹あしたか山の南麓に位置する。地名は浮島うきしまヶ原の東部にあたることに由来するといい、東は椎路しいじ村、西は鳥谷とや村、南は今沢いまざわ村。村内を根方ねがた街道が東西に通り、集落はこの街道に沿って形成される。中世には阿野あの庄域に含まれ、「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)七月五日条に引く西芳さいほう(現京都市西京区)の寺領目録のなかに「駿河国阿野庄内東原村弐拾貫文」があげられている。元禄一一年(一六九八)旗本久世領となり、以後久世家領で幕末に至った(「寛政重修諸家譜」・国立史料館本元禄郷帳・旧高旧領取調帳など)

原村
ひがしあしはらむら

[現在地名]舟橋村東芦原

白岩しらいわ川の支流ほそ川左岸に位置し、北は塚越つかごし(現立山町)、南は五郎丸ごろうまる(現同上)、北東は竹鼻たけはな村・古海老江ふるえびえ村。正保郷帳では高三三六石余、田方二二町一反余・畑方三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四四二石、うち明暦二年(一六五六)の新田高一八石、免四ツ二歩、小物成は野役一七匁(三箇国高物成帳)。天明四年(一七八四)の高四四二石、銀高四六匁余(「高野用水水下銀仕立覚」杉木家文書)

東原村
とうばらむら

[現在地名]南那須町東原

大金おおがね村の東、蛇行するあら川右岸段丘上の開けた地域に位置し、東・北は小河原こがわら村。黒羽藩領知高書上(宇都宮大学附属図書館蔵)によれば、大関資増が慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦の際に奥州境目の防備を勤めた功として同年加増された地のうちに「森田之内那須郡之内」として「遠原村」とみえ、高一二四石余。慶安郷帳では田高七〇石・畑高五〇石。元禄郷帳では幕府領、正徳元年(一七一一)旗本花房領となり、同領で幕末を迎える。

東原村
ひがしばらむら

[現在地名]磐田市藤上原ふじかんばら

藤野ふじの村の北、磐田原台地北東部にある。寛文一三年(一六七三)検地帳(鮫島家文書)向笠原むかさはら新畑とあり、向笠原が開発されて成立したとみられる。藤野村の牛頭天王を祀り、見取みどり(現袋井市)の曹洞宗竜光りゆうこう院を旦那寺としていたことから(掛川誌稿)、藤野村から開発されたとも考えられる。

東原村
ひがしはらむら

[現在地名]八尾町東原

新屋あらや村の南東方、大長谷おおながたに川上流右岸にある。飛州二ッ屋村ひしゆうふたつやむら道が通る。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では内名うちみよう村の一八町ほど南にある枝村新田としてみえ、高二八石余。

東原村
ひがしはらむら

[現在地名]上越市東原

荻野おぎの村の東にある。年未詳六月一四日の本願寺顕如印判状(本覚坊文書)に村名がみえ、真宗門徒がいた。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図ではほぼ当村の位置には「千坂対馬分西原村 下」とみえ、本納三八石五斗六升・縄高一〇八石六斗九升五合、家八軒・三四人。

東原村
ひがしはらむら

[現在地名]豊里町沼崎ぬまざき 東原

中野内なかのうち村東方に所在。近世初期は沼崎村のうちで、江戸時代を通じて旗本領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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