沼崎村(読み)ぬまざきむら

日本歴史地名大系 「沼崎村」の解説

沼崎村
ぬまざきむら

[現在地名]志波姫町 沼崎・新沼崎しんぬまざき新大谷地しんおおやち新原しんはらなど

八樟やつくぬぎ村の東に立地し、村内を築館つきだて宿(現築館町)より若柳わかやなぎ宿(現若柳町)に至る道が通る。北は刈敷かりしき村、東は梅崎うめざき村。「安永風土記」によれば、村内の下沖しもおきという田地が沼であったことより村名が起きたという。正保郷帳に村名がみえ、水損と注され、田七二貫七五五文・畑一一貫八四九文で、ほかに新田三貫一六八文とある。前掲風土記では田一六〇貫三七九文・畑一四貫八四八文で、蔵入八五貫六七〇文、ほかは給所。人頭七六人、うち寛永一八年(一六四一)および承応元年(一六五二)検地での竿答百姓は六四人。

沼崎村
ぬまざきむら

[現在地名]豊里町沼崎

東谷田ひがしやた川沿いに所在。永禄七年(一五六四)七月二日の佐竹義昭感状(歴代古案)によれば「沼崎之郷、前野郷佐村并山木」が北条丹後守高広の軍功に対して与えられている。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)には「二百六拾四石五斗仁升七合九勺 沼崎」とあり、佐竹(東)義久の領地。慶長五年(一六〇〇)七月一一日の佐竹義久判物(秋田県立図書館蔵)にも「田中庄沼崎之村之内、百石之所遣之者也」とあり、河井修理亮に宛行われており、また中世には田中たなか庄に含まれたことを示す。同一七年の関東八州真言宗連判留書案(醍醐寺文書)には「常州新治郡沼崎村」の聖林しようりん寺がみえる。

沼崎村
ぬまさきむら

[現在地名]稲垣村沼崎ぬまざき

北は本増もとます村、田圃を隔てて東は豊川とよかわ村、西は沼館ぬまたて村。

享保一二年(一七二七)には広須組に属し、川通三二ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて五七町七反二畝一五歩、村高は三六七・六二五石であった。うち田方は五三町八反八畝一五歩で三五五・四五四石、上田から下々田まで設定され、下田が三〇町七反七畝一二歩、一一五・四一五石とあり、畑方はほぼ同面積の下畑と下々畑で、屋敷地を含めて合計三町八反四畝歩、一二・一七一石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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