来島氏(読み)くるしまうじ

改訂新版 世界大百科事典 「来島氏」の意味・わかりやすい解説

来島氏 (くるしまうじ)

四国,九州の中・近世武家。(1)伊予国野間郡来島(現,愛媛県今治市)を本拠とし,瀬戸内海を舞台に活躍した海賊衆。河野氏,村上氏の同族で,来島海峡に面した来島城を居城として,大三島,能島(現,大島),因島などに勢力を伸ばしていたが,1581年(天正9)中国経略に当たっていた豊臣秀吉の下に参じ,85年秀吉の四国征伐でも水軍として活躍し,1万4000石の大名となった。文禄・慶長の役にも水軍として出陣した。1601年(慶長6)豊後国森(現,大分県玖珠郡玖珠町)1万4000石に封ぜられ,久留島と改姓し,明治になって子爵。(2)肥前国松浦郡大島(現,長崎県平戸市)を本拠とした豪族。本姓は大江氏。中世には肥前国御家人大嶋氏と称した。南北朝時代以後,松浦一族と号したが,のちに筑前黒田藩の家臣となり,来島氏と改姓した。九州大学所蔵〈来島文書〉は,鎌倉時代以来の同氏に関する中世文書41通を伝えている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「来島氏」の意味・わかりやすい解説

来島氏
くるしまうじ

中世、伊予(いよ)(愛媛県)来島を領有した豪族。源氏または河野氏(こうのうじ)の一族との説があるが、大三島(おおみしま)、能島(のしま)、来島、因島(いんのしま)を中心とする瀬戸内海海賊衆村上氏(むらかみうじ)の一族と伝える。室町戦国時代は、河野、大内(おおうち)、毛利(もうり)各氏の支配下にあり、通康(みちやす)は主家河野氏の復興に尽力し、子通総(みちふさ)は村上を来島と改姓したという。1581年(天正9)通総は羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))に属し、のち秀吉の四国征伐で活躍し1万4000石の大名となった。子康親(やすちか)は関ヶ原の戦いで西軍に味方し、1601年(慶長6)豊後(ぶんご)(大分県)の玖珠(くす)、日田(ひた)、速見(はやみ)3郡に転封となり森(もり)(現玖珠町)に移り、子通春(みちはる)以後久留島(くるしま)と称した。森藩1万4000石(のち1500石を一族に分与)を継承し明治に子爵となった。

[山本 大]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「来島氏」の意味・わかりやすい解説

来島氏
くるしまうじ

姓は越智氏。河野四郎通信の 13世右京大夫通信から出たという。代々伊予来島を領有し,来島氏を称した。戦国時代,通定のとき嗣子がなく,通定の姉婿村上通康を嗣とした。通康の子通総は豊臣秀吉に仕え,水軍の将として功があり,文禄4 (1595) 年従五位下,出羽守に任じられ,伊予風早1万 4000石を領した。通総の子康親は徳川家康に仕え,慶長6 (1601) 年豊後国森に移封され,元和2 (16) 年来島を久留島と改称。明治にいたり,子爵に叙せられた。

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世界大百科事典(旧版)内の来島氏の言及

【水軍】より

…同じく熊野海賊出身の堀内氏善(紀伊新宮)や杉若氏宗(紀伊田辺)も大名化している。村上水軍(海賊)を構成する能島氏,来島(くるしま)氏,因島氏らは古くから瀬戸内海の交通を支配していたが,同じく瀬戸内の海賊衆である乃美氏,小泉氏,生口氏らは小早川氏の一族であったことから,村上海賊と毛利,小早川氏との間に盟約関係が結ばれるようになる。北九州の海賊衆である松浦党(まつらとう)の場合も,中世末期には平戸松浦氏,宇久五島氏らによって統合がすすめられるなかで天下統一を迎えた。…

【村上水軍】より

…88年秀吉の海賊禁止令により海上支配権に終止符が打たれ,文禄・慶長の役には水軍として動員された。関ヶ原の戦以後,来島(久留島)氏は豊後の森に転封され,能島・因島両村上氏は長州藩に船手組として仕えた。【加藤 益幹】。…

※「来島氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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