日田(読み)ひた

精選版 日本国語大辞典 「日田」の意味・読み・例文・類語

ひた【日田】

大分県西部の地名筑後川の上流域日田盆地にある。文祿三年(一五九四豊臣秀吉直轄地となり、江戸時代天領となって西国筋郡代役所が置かれた。杉の美林をひかえ、木工業がさかん。広瀬淡窓の私塾咸宜園(かんぎえん)跡(国史跡)などがある。昭和一五年(一九四〇市制

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デジタル大辞泉 「日田」の意味・読み・例文・類語

ひた【日田】

大分県西部、筑後川上流域にある市。もと城下町。日田杉を産し木工業が盛ん。広瀬淡窓の私塾咸宜園かんぎえん跡がある。平成17年(2005)3月に日田郡5町村を編入。人口7.1万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「日田」の意味・わかりやすい解説

日田[市] (ひた)

大分県北西部の市。2005年3月旧日田市が天瀬(あまがせ)町,大山(おおやま)町と上津江(かみつえ),中津江,前津江(まえつえ)の3村を編入して成立した。人口7万0940(2010)。

日田市東部の旧町。旧日田郡所属。人口6660(2000)。北は旧日田市,南は熊本県小国町に接する。町の中央部を玖珠川が西流し,川に沿ってJR久大本線が走る。大分自動車道の天瀬高塚インターチェンジがある。玖珠川沿岸の米作のほか,町域の大部分を占める山地では林業をはじめ,畜産,養蚕,果樹栽培が行われる。南部の五馬高原ではダイコンの栽培が盛ん。玖珠川流域には天ヶ瀬温泉(単純泉,80~100℃),湯ノ釣温泉(単純泉,45~59℃),慈恩の滝がある。

日田市中部の旧町。旧日田郡所属。人口3910(2000)。北西部は旧日田市,南端は熊本県に接する。中央部を北流する大山川沿岸の低地のほかは,大半は山地が占め,段々畑がみられる。近年,果樹園の造成が盛んで,梅,栗などを産し,また杉,ヒノキなどの木材やシイタケも生産される。東部は耶馬日田英彦山(やばひたひこさん)国定公園に属する。

日田市南端の旧村。旧日田郡所属。人口1308(2000)。東・南・西は熊本県に接する。中央部にチイゴ岳(912m),西部に酒呑童子山(1181m),南部に尾ノ岳(1041m)があり,西から川原川,南から上野田川が発して村内を北流し,北端で津江川に合流する。村域のほとんどが山林原野で占められ,日田林業の中心地として,古くから人工造林が盛んで,杉,ヒノキを産出する。酒呑童子山一帯はシャクナゲドウダンツツジの群生地として有名。

日田市南部の旧村。旧日田郡所属。人口1338(2000)。県の最西端に位置し,周囲を渡神(とがみ)岳(1150m),三国山(994m),酒呑童子(しゆてんどうじ)山(1181m)などに囲まれた山岳地帯で,中央を鯛生(たいお)川が東流し,村の東端で筑後川水系の津江川に合流する。集落は津江川とその支流沿いに散在し,鯛生川沿いに国道442号線,村域東端を熊本へ向かう387号線が通る。西部の鯛生金山は1972年の閉山まで日本有数の金山であったが,83年より九州初の地底博物館として金鉱脈,採掘跡などを復元し,公開している。村域の9割が山林で,日田杉の産地として知られる。米,茶,シイタケを産しワサビの栽培も盛んである。田ノ原(たのはる)にある伝来寺の庭園は室町期築造とされる名園。周囲の山々は津江山系県立自然公園に指定され,東部には下筌(しもうけ)ダムがある。
執筆者:

日田市北部の旧市。1940年市制。人口6万2507(2000)。筑後川上流部の日田盆地の中心に位置し,市街地をなす三隈(みくま)川沿いの隈と花月(かげつ)川沿いの豆田は,いずれも戦国期以来の町場であった。地形が筑後川の流路である西に開けているため,古くから生活面では福岡県側との関係が深かったが,近年,大分自動車道のインターチェンジができ,福岡市の商圏との結びつきが強くなってきている。市周囲の山地は,日田杉に代表される杉やヒノキの美林で,明治後期ころから林業がおこり,とくに大正期に入ってから,製材業や下駄,家具などの木工業が急速に発展,木材加工業地として知られた。また,周囲の山地から河川が集まる水郷としても知られ,朝霧や三隈川の鵜飼いは名高い。ボーリングによる温泉(日田温泉)も湧出。このほか私塾咸宜(かんぎ)園跡や月隈(つきくま)城跡,日隈(ひのくま)城跡などの史跡にも恵まれ,耶馬日田英彦山国定公園の一部になっている。市北郊の小鹿田(おんた)(皿山)は柳宗悦が見いだした〈民陶の里〉として知られ,1705年(宝暦2)筑前国小石原(こいしばる)村から伝えられたとされる打刷毛模様や点線模様に特色をもつ小鹿田焼を産する。JR久大本線が通じ,西部の夜明(よあけ)からは日田彦山線が分岐している。
執筆者:

日田は江戸時代には豊後国日田郡刃連(ゆきい)郷隈町と同郡夜開郷豆田町を中核として周辺の村をも含んだ地域の通称で,幕府の代官所が置かれ,九州の政治・文教の一中心地として発達した。日田が正称となったのは1901年豆田町,隈町が合併して日田町が成立してからである。1594年(文禄3)宮木長次が隈城に入部し,城下町の隈を造成した。97年(慶長2)には毛利高政が入り,1万石を領するとともに日田・玖珠(くす)両郡の太閤蔵入地を統治し,1601年高政が佐伯に移封した後はその預領地,および江戸幕府の代官小川光氏の直轄地となった。光氏は丸山城を築き,その城下町丸山を形成した。16年(元和2)石川忠総が永山城(丸山城を改称)に6万石で入部し,丸山町を豆田町と改称。33年(寛永10)からは大名預所,39年には,小川藤右衛門,小川九郎右衛門が代官となり,永山城のふもとに代官所(永山布政所,日田代官所)を築造した。その後,一時松平直矩の大名領となるが,総じて幕府領として発展した。代官は,18世紀初頭までは大分郡高松(現,大分市)との交代在勤がとられたが,1724年(享保9)以降は日田在陣が常となった。67年(明和4)揖斐十太夫が西国筋郡代に任じられて以降,郡代在陣地として九州幕領支配の一中心となった。

 隈・豆田両町は,筑後川舟運により北部や西部一帯と交通路が開けたため仲介商業が発展し,豪商が形成された。彼らは,代官所の廻米用達や掛屋をつとめ,また預り金を運用して周辺諸国の大名や村々への貸付けを行い,日田金(ひたがね)と称する金融業者として発展した。隈町の山田・森両家,豆田町の草野,広瀬,千原,手島の各家などの豪商が軒を並べ,八軒士とか掛屋仲間衆と呼ばれた。現在も両町の町並みは往時の盛行を伝えている。豪商たちは金融のほか,蠟絞(ろうしぼり),酢,糀(こうじ),みそ,しょうゆなどの製造・販売もしたり,周辺村落の村役人をつとめる者もいた。津江・大山筋の林業に手をのばす者も出て,のちの日田林業の基礎が形成された。

 政治・経済的発展のなかで,諸国の文人たちの往来も繁く,俳諧などを中心に学問・文芸も発達し,いわゆる日田文化が成立した。そうした日田文化の頂点に立つのが,豆田町の豪商博多屋に生まれた広瀬淡窓であり,彼が堀田村に開いた私塾咸宜園とその教育であった。淡窓は近代教育の原型ともいうべき手法を用い,全国から集まった4600余人の門人を育て,高野長英,大村益次郎,長三洲など逸材が輩出している。明治以降,天領日田の威光は急速にすたれ,日田商人の威勢も失われていった。
執筆者:

日田市西部の旧村。旧日田郡所属。人口1646(2000)。北は旧日田市,西は福岡県に接する。村域の大部分は標高500m以上の山地で,筑後川の支流高瀬川や赤石川沿いにわずかに耕地が散在する。中心集落は大野。米作や畜産のほか,高冷地野菜,シイタケ,花木の生産が行われる。〈日田杉〉の産地として知られる。南部一帯は釈迦ヶ岳,権現岳,渡神岳など標高1000m以上の山々がそびえ,津江山系県立自然公園に属する。大野にある老松(おいまつ)天満社は菅原道真らを祭神とし,その旧本殿(15世紀後半ころの建築)は重要文化財に指定されている。また神社には平安末以降に作られた,さまざまな様式の懸仏(かけぼとけ)が200余面伝えられている。
執筆者:

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世界大百科事典(旧版)内の日田の言及

【大分[県]】より


[沿革]
 明治以前は豊前国下毛・宇佐両郡と豊後国にあたる。江戸時代には豊前国に中津藩があり,豊後国に日田の西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)支配の天領と岡,臼杵,杵築,日出(ひじ),府内,佐伯,森の各藩が置かれたほか,預地,旗本領,宇佐神宮領,飛地などがあった。1868年(明治1)天領に日田県が置かれ,71年廃藩置県をへて,豊後の各県は大分県に統合された。…

【西国筋郡代】より

…豊後国(大分県)日田に設置された江戸幕府地方職制の一つ。勘定奉行に属する旗本役。…

※「日田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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