出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
広島県尾道市の島。同市に合併した旧因島市の大部分を構成する。面積33.9km2。芸予諸島の北東部に位置し,北は布刈(めかり)瀬戸をはさんで向島に,南は長崎瀬戸を隔てて愛媛県弓削(ゆげ)島に対する。島の中央から東部には古生層からなる奥山(391m),青影山などの急峻な山地があるが,ほかの大部分は花コウ岩からなる低起伏の丘陵地や山麓緩斜面であり,島の生産物であるミカン,ハッサクなどが栽培されている。樹園地が耕地の大半を占めるが,ミカンの生産過剰という状況の中で,晩柑作への切替えや野菜栽培を進めている。かつて主産物であった除虫菊は,今は栽培農家がない。荘園時代は塩の特産地として重視され,室町~戦国時代は村上水軍の根拠地となっていたので,その城跡をはじめ金蓮(こんれん)寺や法楽踊,水軍太鼓など村上氏ゆかりの文化財が多い。海運業は江戸時代を通じて盛んだったが,明治に入ると衰微した。しかし明治20年代に島の南部,土生(はぶ)にドックが設けられると,因島は〈造船の島〉として発展することとなった。
執筆者:藤原 健蔵
《三代実録》元慶2年(878)12月15日条に〈授備後国無位隠島神従五位下〉とあるのが初見で,《和名抄》(高山寺本)には御調(みつぎ)郡の郷として因島が記されている。1191年(建久2)長講堂領の一つとして目録に姿を現すこの島は,単に因島(のち因島荘)といわれており,島が荘園となった時点には因島は内に小単位を含みつつも,なお全体として一個の単位だったと思われる。鎌倉中期の1276年(建治2)因島は,常光院領三津荘,宣陽門院領因島中荘,同女院領重井浦(のち重井荘)の3ヵ所に分かれており,それぞれの地頭は北条氏一門で,以後鎌倉時代を通じて得宗領だったと思われる。鎌倉幕府滅亡後,因島の地頭職は尾道の浄土寺が1333年(元弘3)に後醍醐天皇から与えられ,36年(延元1・建武3)には足利尊氏から改めて寄進をうけて所持していた。38年に尊氏の寄進によって,京都の東寺がこの島の荘園領主となった。しかし東寺の経営は不安定で,近隣の武士による争奪が繰り返された。南北朝末期には小早川氏の勢力が因島をおおい,室町時代に入ってもその勢力は同島に根強く残った。15世紀後半には東寺の支配はまったく及ばなくなっている。なお瀬戸内水軍の代表としてよく知られる因島の村上氏は,能島(のしま)(現,大島)と来島(くるしま)の村上氏と合わせて三島(さんとう)村上と称せられ,すでに南北朝時代より大きな力を有し,応仁の乱から戦国争乱期を通じて,独立を維持しながら,時々の合戦のたびに大名の招きをうけていずれかにみかたするという形で活躍した。青陰城をはじめとして現在因島に残る中世の城跡は,ほとんどが村上氏の築城と伝えられる。また1468年(応仁2)に明に渡った天与清啓の記録《戊子入明記》には,渡唐船の一艘として〈隠島熊野丸六百斛〉が記されており,因島が早くから海運の拠点であったことは他の史料からもうかがわれる。
→村上水軍
執筆者:外園 豊基
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…19年(元応1)守護長井貞重の代官円清らが尾道浦に乱入し,当浦預所代らを殺害し悪党らをからめ取り,民家1000余宇などを焼き大船数十艘で仏聖人供などの資財を運び去った事件は,悪党どうしの衝突と評価される。当時塩の生産地因島(いんのしま)の地頭職は北条得宗領であったが,33年(元弘3)尾道浄土寺に寄進された。西大寺叡尊の弟子定証による浄土寺の再興や同宗の草戸(草戸千軒)の常福寺再建,尾道での時宗の海徳寺や常称寺の創建,浄土真宗明光派の始祖による沼隈郡山南(さんな)の光照寺の創建,同郡水呑にあった真言宗重顕寺の日蓮宗への改宗などは鎌倉後期以降の内海水運の発達にそうものであった。…
※「因島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新