杉沢村(読み)すぎさわむら

日本歴史地名大系 「杉沢村」の解説

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]遊佐町杉沢

蕨岡上寺わらびおかうわでら村の北東にあり、月光がつこう川上流左岸に位置する。地内には遺跡が多く、旧石器時代の月野原つきのはらB遺跡、縄文・弥生時代の杉沢B遺跡、奈良・平安時代の大樽川おおたるかわ窯跡群、鎌倉・室町時代の陣屋館跡などがある。また当地の堀徳四郎宅からは、ほぼ完全な形の土偶が出土している(奈良国立博物館蔵)。古来、庄内と由利ゆり(現秋田県)の交通路はくわもり道を使っていたが、戦国時代末期武藤義氏は、治安が悪いためこの道を閉鎖し、その仕置を上のほうは当村・上野沢かみのざわ村・吉出よしで村の三ヵ村にゆだねた(「山仕置書物」菅原文書)。慶長一六年(一六一一)の鳥海神領内杉沢村検地帳(旧杉沢区有文書)では田一千七八三束刈、年貢米一四石余、うち本田八五七束刈(年貢高七石七斗余)・出田七九五束刈(同五石九斗余)・苗代四一束刈(同四斗余)・興田三〇束刈(同二斗余)・興出田六〇束刈(同二斗余)

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]伊吹町杉沢

村木むらぎ村の北西に位置し、北西の高番たかばん村との間を流れる弥高やたか川左岸に立地。杉之沢すぎのさわ村とも記した(正保郷帳など)。永正九年(一五一二)正月五日の正順田地寄進状(成菩提院文書)によると、「柏原庄椙沢郷久光名」が成菩提じよぼだい円乗えんじよう(現山東町)に寄進されている。勝居かつい神社蔵の鰐口銘に永禄六年(一五六三)一二月二三日の年紀とともに杉沢郷と刻まれている。年未詳一二月一七日の浅井長政書状(上坂文書)には、上坂蔵介知行杉沢在の米一千石が水害を受けたとある。

杉沢村
すぎのさわむら

[現在地名]妙高高原町杉野沢すぎのさわ

せき川最上流部にあり、南の対岸は信濃国水内みのち野尻のじり(現長野県上水内郡信濃町)のうち高沢たかざわ。東は北国街道の宿場である関川せきがわ村。西方一帯は深い山で、ほぼ関川に沿ってさかのぼり、ささみねを経て乙見山おとみやま峠を越え、信濃国安曇あずみ小谷おたり(現長野県北安曇郡小谷村)へ抜ける道がある。戸隠とがくし神社(現長野県上水内郡戸隠村)への参詣道の越後口でもあり、口碑によれば、開村は古く大同年間(八〇六―八一〇)と伝える。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]湯沢市杉沢

雄物川と皆瀬みなせ川に挟まれた奥羽山脈の西の山すそにある。西に横手盆地が広がり、北は岩崎いわさき村、東はあまだい(三一四・六メートル)越えに戸波となみ村(現平鹿ひらか郡増田町)、南は杉沢新所すぎさわあらどころ村、西はもり村・岩崎村に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には三八四石とある。享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保杉沢村、其高両村之高ニ致都合候、同絵図杉沢一村と記、諸帳同之、元禄右纏高猶高を増、正保・元禄共ニ誤新田出、今度杉沢新田村を宝永以前其所ニ唱候通杉沢新所村と改、御黒印被下、郷帳も両村記、郷村帳ハ唯今迄之通杉沢村と記」とあり、杉沢新所村との関係と諸帳の記載の関連が記される。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]横手市杉沢

御嶽みたけ(七四四メートル)の西寄りの付近、西は仙北郡安本やすもと村、杉野目すぎのめ村に接する。村の西部を南北に羽州街道(現国道一三号)が貫き、杉沢川が東西に貫流し、村の南を吉沢川が平行して流れる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では、横手町の北は仙北郡との境まで当村域であった。

「六郡郡邑記」には枝郷として弥勒みろく村・上台うわだい村・館泉たていずみ村・谷地中やちなか村・御所野ごしよの村・中杉沢なかすぎさわ村・中嶋なかじま村・見入野みいりの村・吉沢よしざわ村をあげ、これらの総称を杉沢村と称している。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]岩代町杉沢

初森はつもり村の東に位置し、北は西新殿にしにいどの村、東は東新殿村、南は田村郡石沢いしざわ村・新館にいたて(現船引町)青石あおいし(現三春町)。天正一〇年(一五八二)一〇月日の田村清顕安堵状(松藩捜古)に「菅之沢在家西さく」とみえ、安斎治郎左衛門を味方にするために奔走した本田平左衛門は四貫文の地を清顕から安堵されているが、この「菅之沢」は当地のことである。本田氏は同一四年九月五日に伊達政宗から本領「すけのさわ之内 一にしさく在家」三貫文の地を安堵されている(「伊達政宗安堵状」同書)

杉沢村
すぎのさわむら

[現在地名]下郷町大松川おおまつかわ

木令もくれい村の南、観音かんのん川左岸の河岸段丘上に立地。天正年間(一五七三―九二)に当地の小坂こさか館に拠った館主の帯刀は天正一八年の松川騒動の際、赤岡あこうか館主と連合し検地役人に抵抗したが敗れ、当地は松川館主佐藤義久に与えられたという(「佐藤家譜」田島町史)。江戸時代初めは松川村に含まれており、寛永一四年(一六三七)の松川村当請定(下郷町史資料集)に松川村のうち「上もく連」とみえ、高一九二石余。同一八年かみもくから小坂窪杉沢こさかくぼすぎのさわ分が分離、高一一八石余・免四ツ(「松川村当請定」同書)。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」に村名がみえ、九九布こうぶ郷に属する。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]大館市杉沢

大館盆地西部を北流する引欠ひかけ川流域に位置する。天然杉の豊富な沢があり、それが村名の由来といわれる。古屋敷ふるやしき薬師岱やくしだいなどの小字名が残る。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「百四拾壱石四斗九升 本宮村 杉沢村」とある。天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「御家老杉沢喜助」「御小姓杉沢喜之丞」の名がみえ、さらに慶長六年(一六〇一)秋田実季が当村五四石六斗を杉沢右京介に分給していることから判断すると(「秋田実季侍分限」秋田家文書)、中世後期から杉沢氏は当村に居住、開発を進めていたと思われる。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]浪岡町杉沢

羽州街道に沿い、北は高屋敷たかやしき村、南は浪岡村に接する。杉沢堰が村内を流れる。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「杉沢」とある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高四四四・六八石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に村高八〇二・一八九石、うち田方六五町七反二〇歩、六五〇・八三六石、畑方三七町五反一一歩、一五一・三五三石、ほかに池床一七ヵ所で七町九反四畝、漆木四四四本、行人常海屋敷と雷電社地が記される。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]小国町杉沢

西流するよこ川を挟んで町原まちばら村の南にあり、北西は小国小坂町おぐにこさかまち村、南は新原しんばら村。北流する大滝おおたき川が当地で横川左岸に注ぐ。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録に「すきさハさひけ五間」とみえ、上郡山民部大輔に加恩として与えられた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一八四石、免二ツ七分、家数八(うち役家四、肝煎一)・人数二九、役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下、修正前の高は一八九石余。寛永一六年(一六三九)の検地帳(杉沢公民館蔵)によると高四八七石余、反別は上田一八町九反余・中田九町余・下田四町五反余、上畠九畝余・中畠二反余・下畠一町余、屋敷二町八反余(一七間分)で田方が圧倒的に多く、ほかに焼畑三畝余があった。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]平田町小林こばやし

杉沢新田村の南、小林川の中流にある山間村。明暦二年(一六五六)の検毛帳(飽海郡誌)では高三六石余。寛文三年(一六六三)には高三五石余、うち二石は付荒。小林川右岸の一七石余は庄内藩領、同川左岸の八石余は松山藩領となり免は二ツ八分(「村々替地帳」松山町資料館蔵)。松山藩領分は天明七年(一七八七)の松山領高辻帳(同館蔵)では高一七石余、天保一五年(一八四四)の高辻并留(同館蔵)では高三〇石余とさらに増加、免二ツ五分、家数二二、うち禅宗檀家一六・浄土真宗檀家六、人数一二七とある。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]矢島町川辺かわべ

子吉こよし川が大きく蛇行する西岸にあり、上流は川原かわら村、下流は小板戸こいたど村である。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に村名がある。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)に三一一石二斗七升四合とあり、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡仙北郡之内生駒主殿同権之助知行高辻帳(秋田県庁蔵)も同高を記す。宝暦六年(一七五六)の御領分中覚書(矢島町史)では本田三五四石三斗三升九合、新田一九石七斗六升六合、家数五八軒、人数三二四人。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]見附市杉沢町

堀溝ほりみぞ村の東、集落は刈谷田かりやだ川右岸の第二段丘上にある。集落から北への道は赤坂あかさか峠を越えて長沢ながさわ(現南蒲原郡下田村)、東への道は文納ぶんのう村を経て樫出かしいで(以上現栃尾市)へ至る。南は刈谷田川を挟んで宮之原みやのはら村。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に杉之沢村とあり、高四三二石。正保国絵図に村名がみえ、長岡藩領。

杉沢村
すぎさわむら

[現在地名]浄法寺町浄法寺

浄法寺村の西、稲庭いなにわ岳の麓にある。正保国絵図に村名がみえ、高四六石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高三六石余、七ヵ年平均の免は八分二厘七毛。江戸期を通じて盛岡藩領であったが、元禄七年(一六九四)から宝永三年(一七〇六)まで、新田分五石余が五代藩主南部行信の弟旗本南部政信領となる(郷村古実見聞記)。元禄十郡郷帳による〆高は田方五〇石余・畑方三一石余。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では、蔵入高四〇石余・給所高九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報