岩代町(読み)いわしろまち

日本歴史地名大系 「岩代町」の解説

岩代町
いわしろまち

面積:九八・三七平方キロ

阿武隈高地の西斜面、起伏の少ない丘陵地帯に位置し、阿武隈川の支流うつし川・口太くちぶと川の流域東西に長く広がる。郡の南東部を占め、北は東和とうわ町・伊達郡川俣かわまた町、東は双葉郡浪江なみえ町・葛尾かつらお村、南は田村郡船引ふねひき町・三春みはる町、西は白沢しらさわ村・二本松市。東端に阿武隈高地第二の高峰(一〇五七・六メートル)がそびえる。交通路は河川沿いを走り、国道三四九号が町のほぼ中央部を、県道飯野いいの三春栃本とちもと線が町の西端部をともに南北に通じており、県道二本松―浪江線が東西に横断している。現町域の村は天正一八年(一五九〇)の奥羽仕置後会津領となり、蒲生氏・上杉氏・蒲生氏(再封)を経て加藤氏の支配下に置かれたが、寛永二〇年(一六四三)丹羽氏の二本松入部により二本松藩領となり、初森はつもり村は糠沢組、宮守みやもり村・上長折かみながおり村・下長折村・西勝田さいかちた村・小浜成田おばまなりた村は小浜組、残りの七村は針道組に属して幕末に至った。

岩代町
いわしろちよう

[現在地名]中央区日本橋堀留町にほんばしほりどめちよう一丁目

新乗物しんのりもの町の南にあり、東西に続く片側町。西は新材木しんざいもく町、東は長五郎ちようごろう屋敷、南は葺屋ふきや町・さかい町。元禄六年(一六九三)江戸図正方鑑町名みえる。葺屋町と堺町の芝居小屋裏に位置し、芝居茶屋が多いことから楽屋がくや新道と俗称され(御府内備考)、葺屋町付分は葺屋新道、堺町付分は堺新道と俗称された(文政五年万世町鑑)。安永三年小間附町鑑によれば京間四一間、公役金を負担する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報