平田町(読み)ひらたまち

日本歴史地名大系 「平田町」の解説

平田町
ひらたまち

[現在地名]平田市平田町

出雲平野の北東端に位置し、周囲は平田村ぶんに取囲まれる。現在の平田市街の一部にあたり、古くから宍道湖西岸の水運拠点として発展した。中世以来、商家などが集中して町場を形成していたが、近世の松江藩治下においても在町として掌握され、目代・町年寄などが置かれた。かつては宍道湖に面しており、正保国絵図でみると同湖は当地付近で深く湾入し、北方東福とうふく村地内の牧戸まきどの辺りまでが湖岸であった。しかし、その後斐伊川の沖積作用による湖岸の堆積が進み、天保国絵図(内閣文庫蔵)ではこの湾入部は干拓により完全に消滅、新田地帯として開発されて、当地も牧戸もまったく内陸となっている。このため、当町は新田地帯の北部を貫流する平田船ひらたふな(船川)という水路によって宍道湖とつながる町となった。町の規模は「東西三二一間、南北三八二間」ほどで(明治六年「地理取調書」県立図書館蔵)、杵築道が通っていた。近世は楯縫たてぬい郡で推移。

〔町勢〕

正保四年(一六四七)の平田町地銭帳によると地銭を徴収する屋敷数は上々屋敷一二・上屋敷一六・中上屋敷一三・中屋敷二三・下屋敷二四・下々屋敷三七、これに地銭免除の五軒を合せると計一三〇軒の町屋敷があった。明暦三年(一六五七)の地銭帳では上屋敷四三・中屋敷二〇・下屋敷三〇・下々屋敷三一となり、これに地銭免除一〇軒を加え一三四軒。延宝九年(一六八一)の地銭帳では本町九一軒・新町八二軒に分けて記載され、合せて一七三軒となり町並の発展をうかがわせる。同地銭帳では、本町に御茶屋床・十王堂敷・通道・法恩寺小路・御蔵道・本妙寺小路・御札場、新町に水道・極楽寺小路・悪水貫などの小路や施設があったことが知られ、町役人として目代一・年寄三・舟目代二・下役人二・橋守一などが置かれていた。また、本町でみると各屋敷の間口は二間余から一〇間以上と広狭さまざまであったが、奥行はほぼ一七間に統一されていた。なお、前掲明暦の地銭帳では屋敷名請人の肩書に大谷・常松・儀満・長廻・小村・竹田・加藤・杉原・福島・渡部・三島・後藤・川瀬・尾村、平野(屋)など名字を記したものがあるが、のちに当町きっての豪家となった木佐家はまだ進出しておらず、その名はみえない。寛政四年(一七九二)の万差出帳(平田市立旧本陣記念館蔵)では家数二九三、しかし竈数は四五六で多数の借家人の存在をうかがわせる。天保一四年(一八四三)には竈数六〇五となり(「東組・西組順村手引帳」平田市立図書館蔵)、明治七年(一八七四)には八〇六軒のうち二九八軒が家持、五〇八軒は借家であった(旧平田町役場文書)

平田町
ひらたまち

面積:一七九・〇一平方キロ

郡の南東部にあり、飛鳥あすかを要に南東と北東に扇形に広がる。東側の河川に沿った山間の集落と西側の平野部にある集落からなる。出羽山地を源流とする相沢あいさわ川は、支流の中野俣なかのまた川・田沢たざわ川を集めて西流し最上川に注ぐ。東は最上郡真室川まむろがわ町・鮭川さけがわ村・戸沢とざわ村、西は酒田市、南は松山まつやま町・東田川郡余目あまるめ町、北は八幡やわた町。西側をJR羽越本線、出羽山地西側山麓沿いに国道三四五号が南北に走る。相沢川とその支流沿いの河岸段丘には、高畑たかばたけ遺跡など一一の縄文時代集落跡がある。

律令制下の当町域は「和名抄」にある飽海郡飽海郷と大原おおはら郷の一部に比定されている。「延喜式」にある飽海駅は飛鳥に比定され、鮭川村真木まきに比定される佐芸さき駅と、遊佐ゆざ大楯おおだてに比定される遊佐駅を取次いだ。飛鳥神社は社記によれば、宝亀五年(七七四)大和国高市郡飛鳥神社から勧請、十一面観音を配し飛鳥大権現と称したと伝え、所在地飛鳥は、大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の創建と伝える新山にいやま大権現(のちの新光山最勝寺)の所在地楢橋ならはしとともに、早い時期に開かれた。

平田町
ひらたまち

[現在地名]彦根市京町きようまち一丁目・錦町にしきまち

小藪こやぶ町の西にある両側町。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数九六のうち借家六七、男一三〇・女一六四(ほか下人七)、諸職諸商は二一種四三軒で、大工・煙草屋各五、米屋四・油屋三のほか紺屋・古鉄屋・屋根屋・鍵屋・万屋など、町代は酒屋、横目は紺屋が勤めている。安永七年(一七七八)の万留書(彦根市史)では町代・横目二軒のほか年貢地五一軒。嘉永三年(一八五〇)の四手町組留書(同書)では家持三七・借家五六。

平田町
ひらたちよう

面積:一六・四五平方キロ

郡北部に位置し、東はほぼ長良川を境に羽島市、北は大榑おおぐれ川を挟んで安八あんぱち輪之内わのうち町、西はほぼ揖斐いび川を境に養老ようろう郡養老町、南は海津かいづ町とそれぞれ接する。養老町とは今尾いまお橋、羽島市とは新南濃大橋などで結ばれる。近世は町域に安八郡一二村・海西かいさい郡六村があり(天保郷帳)正保郷帳によれば尾張藩付家老竹腰氏給地と幕府領が多い。同氏は元和八年(一六二二)以来今尾を在所として幕末に至り、明治元年(一八六八)今尾藩を立藩。今尾は天正期(一五七三―九二)より町場化され、近世には揖斐川筋の主要な船着場の一つでもあった。しかし高須たかす輪中の北部を占める町域の村々は大河川の水に苦しめられることが多く、大榑川洗堰普請を含む宝暦治水の際に命を失った義没者の墓が今尾の常栄じようえい寺にある。

平田町
なめだまち

[現在地名]浜松市平田町・旅籠町はたごまち海老塚町えびつかちよう

伝馬てんま町と旅籠町の境付近から東に延びる脇町。北は武家屋敷後道うしろみちを挟み鍛冶かじ町、東を馬込まごめ川支流のしん川が流れる。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ三町二三間、家数四二。浜松各町書上によると片側町で長さ五五間余、町幅二間三尺。横町は東側・西側とも六四間一尺余。本役家屋敷一四、総家数四三、うち借屋七・借地七・店借二。宝暦九年(一七五九)には大工役のうち本役を一人、素人役・水役を各二人が負担、木挽役は三人、瓦師役・桶屋役は各一人に課されていた(浜松宿諸職記録)

平田町
ひらたまち

[現在地名]三木市末広すえひろ二―三丁目

大村おおむら町の東に位置し、美嚢みの川を挟んで南はかみ町・滑原なめら町。三木町の地方町の一町。元和三年(一六一七)平田村のうち三木町人の出作地が分離・独立して成立(延享二年「町方地方差別之訳言上書控」三木市有文書)。正保郷帳では三木中嶋みきなかじま村に含まれた。延宝年間(一六七三―八一)に地方町の編成替えが行われ、なか町方面の年貢地が平田町とされた(前掲言上書控)。元禄郷帳に町名がみえ、高二三八石余、「古ハ中嶋町」と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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