杉森村(読み)すぎもりむら

日本歴史地名大系 「杉森村」の解説

杉森村
すぎもりむら

[現在地名]田鶴浜町杉森

二宮にのみや川の下流域左岸にあり、北は高田たかた村。村は東西に延びて、田鶴浜往来に沿う。天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高四七石余。正保郷帳では高七九石余、田方四町八反余・畑方四反余。寛文一一年(一六七一)の鹿島半郡高免付帳(長文書)によると高一二六石、免五ツ五歩五厘。同年加賀藩直轄領となり、延宝七年(一六七九)の村御印(杉森区有文書)によれば高二二四石、免四ツ、小物成として鳥役二匁・山役一四匁・苦竹役一匁。天保年間(一八三〇―四四)の高二〇九石余、免四ツ、家数四二(うち頭振六)・人数一七七、小物成として山役・苦竹役が村御印に同じ。

杉森村
すぎもりむら

[現在地名]鳥越村杉森

別宮出べつくで村の南、大日だいにち川右岸に位置する。仮名付帳は「すぎのもり」と訓ずる。椙森野とも記す。貞和三年(一三四七)五月二日の藤原重宗売券(祇陀寺文書)によると、河内こうち庄地頭藤原(結城)重宗は庄内の「椙森野半分」を祇陀ぎだ(現吉野谷村)開山の大智に売却している。その四至は「東限山麓、南限御子清水尻江小橋、西限大河、北限自虹谷至河岸岡分」と記され、「大河」は大日川、「御子清水」は当地南東の神子清水みこしみずに比定されることから、「椙森野半分」は当地南半分の地と考えられる。応永二五年(一四一八)一二月六日には、椙森野一村が代銭五〇貫文で祇陀寺に売渡され、同寺領となっている(「藤原満宗売券」同文書)

杉森村
すぎもりむら

[現在地名]由利町杉森

高瀬たかせ川下流にあり、東は宿しゆく村、西は石沢いしざわ峡を隔てて大簗おおやな(現本荘市石沢)と接する。西流する高瀬川の渓谷部と、字畑村はたむらで同川に合する杉森川の狭い谷間からなる。高瀬川に沿って由利・平鹿ひらかを結ぶ道が通る。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に杉森村一九石とあり、そのほかに下里村の内「杉森村 め」ともある。「め」は矢島領の記号で、この時期には矢島領であったことになる。また、元禄一〇年(一六九七)の国御絵図三枚之内生駒主殿知行所羽州由理郡矢島到米下村之図(県立秋田図書館蔵)には「下里之内杉森村」とのみあり、村高の記載はない。

杉森村
すぎのもりむら

[現在地名]近江八幡市杉森町

西にししよう村の南にある。江戸初期には杉ヶ森村とも記された。長命寺大念仏帳(長命寺文書)の天文七年(一五三八)条に「スキノモリ」とある。寛永石高帳では高二九二石余、山城淀藩領。慶安二年書上によると田二九二石余・畑屋敷二二石余・永荒二五石余。元禄郷帳では大和郡山藩領、以後同藩領で幕末に至る。享保九年大和郡山領郷鑑によれば高は寛永石高帳と変わらず、反別は一八町二反余(うち上田一〇町二反余)、家数三六・人数一八三(うち大工一)、馬一・牛八、村内に浄道じようどう(現浄土真宗本願寺派)日枝神社などがある。

杉森村
すぎもりむら

[現在地名]用瀬赤波あがなみ

板井原いたいばら村の東方山中に位置する。正保(一六四四―四八)以前から赤波村の内村として成立していたが、正保国絵図には載せられず元禄国絵図に初めて収載された(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。その後享保一九年(一七三四)以前に領内限りの一村として独立し、村役人も別に置かれた。同年の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高二三石、竈数一三、本免五ツ三分。

杉森村
すぎもりむら

[現在地名]朝日町不動堂ふどうどう

川右岸にあり、北は不動堂村、東は殿との村、西は横水よこみず村、南は山王さんのう(天保一〇年「上下新川郡一町五厘略絵図」県立図書館蔵)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八一石、免四ツ五歩(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)まで高免の変化はない(「高免帳」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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