日枝神社(読み)ひえじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「日枝神社」の意味・読み・例文・類語

ひえ‐じんじゃ【日枝神社】

東京都千代田区永田町にある神社。旧官幣大社。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、国常立神(くにとこたちのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。文明年間(一四六九‐八七太田道灌が武蔵国川越の無量寿寺の山王権現を江戸城に移し城内鎮守としたのに始まる。徳川氏入府以来将軍家の産土神(うぶすながみ)とされた。六月一五日の例祭は山王祭(御用祭、天下祭)といわれ、神田明神浅草神社の祭とともに、江戸三大祭の一つ。江戸山王権現。山王日枝神社。山王さん。

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デジタル大辞泉 「日枝神社」の意味・読み・例文・類語

ひえ‐じんじゃ【日枝神社】

東京都千代田区にある神社。旧官幣大社。祭神は大山咋神おおやまくいのかみほか三神。文明年間(1469~1487)太田道灌江戸城内に武蔵国川越の山王権現勧請かんじょうしたのに始まる。例祭の山王祭は御用祭り・天下祭りとも称し、神田祭と並んで有名。江戸山王権現。山王社。

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日本歴史地名大系 「日枝神社」の解説

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]千代田区永田町二丁目

皇居の南西方、外堀通を挟んで港区と隣接する高台に鎮座。祭神は大山咋神、相殿神は国常立神・伊弉冉神・足仲彦尊。旧官幣大社。鎮座地は江戸時代には江戸城の南西、外堀に接した内側、溜池ためいけと赤坂御門の中ほどの小丘(星岡)上にあたる。日吉山王神社(江戸名所図会)日吉山王権現(東都歳事記)・山王神社(江戸砂子)、また江戸山王大権現・麹町山王ともいい、一般には山王さんと通称された。徳川将軍家は当社を江戸城の鎮守社、徳川家の産土神として幕府の直轄社と位置付け、大祭(山王祭)は天下祭と称されて、幕府権力を象徴するものとして執行された。明治元年(一八六八)以降は日枝神社を公称とする。

〔創建〕

江戸時代の社伝によると、比叡山延暦寺の円仁が武蔵国入間郡河越仙波かわごえせんば(現埼玉県川越市)に星野山無量寿むりようじゆ寺を創建した際、延暦寺の守護神・護法神である日吉山王を勧請。太田道灌が江戸城を築いた後、文明年中(一四六九―八七)に江戸の産土神として星野山より山王を城内に勧請したとされる(「永亨記」「江戸砂子」「江戸名所図会」など)。一方で、貞治元年(一三六二)一二月一七日の旦那願文(熊野那智大社文書)に「豊島郡江戸郷 山王宮」がみえ、当社の起源はさらにさかのぼることが判明した。平安時代後期、江戸氏が自ら開発した所領の江戸郷を、後白河法皇によって京都東山に勧請された新日吉いまひえ社へ寄進し、郷内に末社を建立したものとも測定される。

天正一八年(一五九〇)徳川家康が江戸城を居城と定めると、当社を鎮守神として新社殿を造営。その後城西の半蔵はんぞう御門外に遷座したが、明暦大火後の万治二年(一六五九)、溜池の松平主殿頭(丹波福知山藩)屋敷跡(現在地。永田馬場の星野山)に移された。以降江都第一の大社として厚く崇敬され、天下泰平・国家安鎮の祈祷を怠らず行ったという(「江戸砂子」「江戸名所図会」など)

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]鶴岡市山王町

山王さんのう町北部にある。旧県社。祭神は大己貴命・山末之大主大神・市杵嶋姫命。創建年代は不詳。近世には小真木こまぎ村の上山王社(現日枝神社)に対して下山王社・下山王大権現などとよばれ、北は六軒小路ろつけんこうじ、南はあら町に面していた。鶴ヶ岡総鎮守三社の一。当社旧蔵の慶長一六年(一六一一)の棟札銘に「櫛引郡大宝寺村山王大神社」とみえ、このとき最上義光により社殿が造営され、鉄鉢・鰐口などが奉納された。この時の鉄鉢銘に「鶴岡山王上下之社」とあるから、上山王・下山王両社はもともと一社であったと考えられる。同じ頃義光から社領七七石余寄進の黒印状三通を与えられたとみられる(延宝九年庄内寺社領高付帳)。元和八年(一六二二)の庄内寺社領目録では社領は下大宝寺しもだいほうじ村にあった。

酒井氏入部後はその崇敬を受け、延宝二年(一六七四)社殿の修造等が行われている(「御普請所覚書」鶏肋編)

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]沼津市平町

三枚橋さんまいばし地区の南東端、大岡おおおか日吉ひよし地区との境、狩野かの川の下流右岸に位置する。主祭神は大山咋神で、旧県社。古くは山王社・日吉山王社などとよばれ、大岡庄の総社として崇敬された。現在も地元では「山王さん」の愛称で親しまれている。弘安一一年(一二八八)一月二二日に僧正法印某が奉納したとの奥書がある当社蔵の山王霊験記(絵巻、紙本著色、国指定重要文化財)によれば、承徳三年(一〇九九)六月二八日に没した関白藤原師通は、近江日吉山王の祟りによって死亡したものといわれた。師通の母(源師房の娘麗子)は師通後生のために近江日吉社に八王子を祀り、その役料として大岡庄を寄進した。このとき併せて同庄内に近江日吉社の分霊を勧請したといい、これが当社の草創とされる。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]中央区日本橋茅場町

日本橋茅場にほんばしかやば町一丁目のほぼ中央部にある。千代田区永田ながた町二丁目にある日枝神社の摂社。旧官幣大社末社。祭神は大山昨神で、相殿として国常立神・伊邪那美神・足仲彦尊を祀り、末社として稲荷神社・浅間神社北野きたの神社を相殿に祀る。江戸時代には山王御旅さんのうおたび所とよばれ、南茅場みなみかやば町のうち千川せんかわ屋敷南側の西角にあり、西側は坂本さかもと町二丁目に面して門前(南茅場町続山王御旅所門前)が形成され、西への参道があった。南茅場町のうちには古くはよろい島という寺地があり、寛永年中(一六二四―四四)寺はほかに移され、同一二年に山王御旅所となったという(東京府志料)

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]鶴岡市日枝

日枝地区のほぼ中央にある。現在の祭神は山末之大主命・大己貴命・市杵島姫命を主神として、神明社・稲荷社・疱疽社・山王産霊社を末社として配祀する。旧郷社。旧名は鶴ヶ岡城下あら町北方にある日枝神社を下山王しもさんのう社というのに対して上山王社とよばれ、またもともとは日吉山王とよばれていたともされる(鶴岡昔雑談)。「筆濃余理」所収の社伝によれば、用命天皇丙午年、東北地方鎮護のために大国主命・山末之大主神を祀ったのが始まりというが、開創についての明証は欠く。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]酒田市日吉町一丁目

江戸時代の下台しもだい町の西側砂丘上に鎮座。祭神は大己貴命、旧県社。下山王社・東禅寺とうぜんじ山王宮・下日枝神社ともいう。近江国日吉社より勧請し、もと向酒田むこうさかたにあり、酒田の産土神であったが、町民が最上川右岸に移転して酒田町組が成立するに及び、当社も西浜にしはまの御富士山付近に遷座した。慶長六年(一六〇一)東禅寺城主志村光安は城内の山王宮(上山王社)を城外(のちの山王堂町)に遷座して東禅寺分内町組・米屋町組の鎮守とし、同時に当社をあら町地方に遷座して酒田町組の鎮守と定めた。本地仏釈迦如来を安置し、別当不動院が奉仕していたが、同八年酒田町長人上林和泉・永田讃岐などは当社の祭神大己貴命を本宮とし、東禅寺山王社斎藤某を別当として南殿と称した。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]酒田市浜田一丁目

新井田にいだ川下流右岸に鎮座。祭神は大己貴命・大山咋命。旧郷社。通称上山王社。貞観一七年(八七五)近江国日吉社より勧請。初め最上川下流左岸の宮野浦みやのうら村にあったが、のち東禅寺とうぜんじ城鎮守として城内に遷祀されたという。慶長六年(一六〇一)城主の志村光安は東禅寺分内町・米屋町両組の安全守護のため、のちの山王堂さんのうどう町にあたる地に移した。城内山王宮とも称したのは、城内の鎮守であったことによる。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]富山市山王町

旧県社。祭神大山咋命・大己貴命・天照大神・豊受大神。古くは山王・山王権現などとよばれた。勧請時期は不詳であるが、当初新川にいかわ針原はりわら大野おおの(現向新庄付近という)に鎮座していたという。建武二年(一三三五)中先代の乱に呼応した名越時兼が社頭に火を放ったため、神主平尾氏は神体を守って鬼土山おんどやま(現大山町隠土)に避けた。その後中野なかの村古宮(現西中野)に奉還、貞治六年(一三六七)以後に藤居ふじい(藤井村)に移されたという。藤居村は富山城の所在地の旧名と伝える。その後、佐々成政が富山城に居城時、城内の山王社を現在地に移し、富山城下の氏神としたという。当社は富山ふせん寺の鎮守で、祭礼時には富山寺を御旅屋とし神輿が渡御したとする(「肯泉達録」「越中志徴」など)

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]日野町大窪 上岡本町

江戸時代の岡本おかもと町の南端、旧日野ひの川流路の右岸にあるみなみ山と称される独立低丘陵上に位置する。祭神は天津日子根火瓊瓊杵あまつひこねほのににぎ尊・天津児屋根あまつこやね命・軻遇突智かぐつち命。江戸時代には山王宮とよばれ、松尾山まつおやま村の北山王(現井林神社)に対し、南山王と通称された。創祀年代は不詳であるが、当地一帯に山門勢力が進出した頃の勧請か。社伝によれば城下町形成以前はうしくぼ十三仏堂の傍らに祀られていたが、天文三年(一五三四)頃の町割にあたり移され、慶長六年(一六〇一)には大将軍だいしようぐん野に移転、さらに同九年に現在地に移ったという。南山の尾根上には全長四五メートルの前方後円墳(帆立貝式古墳とも)があり、この一部を削平して社地とした。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]小浜市太良庄

太良庄たらのしよう字太良庄の東側山裾に鎮座する。山王宮また山王大権現とも称され、当地の小野おの寺が別当であった。旧村社。社蔵の山王権現縁由記には祭神は天津彦彦火瓊瓊杵あまつひこひこほのににぎ尊、天平宝字五年(七六一)垂迹とあるが、中世に勧請されたと推定される。当社最古の棟札には「八幡宮 若州遠敷郡太良庄谷村 大工遠敷 応永三十四丁未年八月十五日作立 大願主鳴滝村之道性 中村之左近允」とある。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]新治村羽場 宮平

祭神大山咋命、旧村社。旧称下の山王。これに対して上の山王は新巻あらまき池の原いけのはらに、ここから分祀された中の山王が新巻字村草むらくさにある。当社は当初羽場はば村の藤塚ふじづかに祀られていたが、のち廻戸まわつとに移され、さらに現在地に遷座したと伝えられる。毎年四月二〇日に「伝つく舞」といわれる獅子舞が催される。現在社宝として県内最古の形式といわれる三頭の獅子頭(牡獅子二頭・牝獅子一頭)のほかに「羽場日枝社獅子舞七社由来」が残されている。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]日光市野口

JR日光線や国道一一九号に沿う北側の生岡平いくおかだいらとよばれる小高い丘上にある。祭神は大山咋神。古くは生岡山王社と称された。「円仁和尚入当山記」などによれば、嘉祥元年(八四八)七月五日、円仁が東国守護のため生岡の大日堂の前に山王神を勧請したのが創始とされる。日光山生岡縁起(当社蔵)では、中世には源頼朝から所野ところの和泉いずみ瀬尾せのお瀬川せがわ小百こびやく吉沢きちさわ(現今市市)の七ヵ村が神事料として寄せられて、生岡大日堂をはじめ二一の僧坊が立並んでいたと記される。天正年中(一五七三―九二)日光山と結ぶ小田原北条氏によって焼払われ、所領も没収されて衰退したと伝える(前掲縁起)

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]由利町前郷 前郷

前郷まえごうのほぼ中央にあり、一千二〇七坪の広い境内をもつ。祭神は大山咋神で、旧郷社。もと山王権現と称し、慶長一四年(一六〇九)領主滝沢兵庫が小友おとも郷からこの地に移したのが始まりといい、滝沢氏没落後は村の守神としてあがめられた。

境内に由利氏の崇敬社であった大日霊だいにちれい神社があり、九世紀初めにこの地に祀られたと伝える大日如来像を祀る。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]上越市寺町三丁目

国鉄高田駅西側にある。近世には日吉とも書き、山王(三王)さんの称で知られた。祭神は大山咋命・天照皇大神・豊受大神、相殿に諏訪明神、神明を祀る。ただし「頸城郡誌稿」は古老の伝として「当社祭神ハ諏訪大神ノ処、戸田能登守高田城主ノトキ、城内ニ鎮守アリタル所ノ三王神、日枝神ノ社殿将ニ廃衰ニ及バントスルヲ悲ミテ、当社ノ祭神ニ合祭シ、社号モ日吉神社或ハ三王社ト改メ、(中略)当社祭神ノ諏訪明神ハイツトナク合祭ノ神トナリ」と記している。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]三島町鳥越

唐崎からさきの西方、標高五〇メートルほどの小高い丘陵地にある。祭神大山咋命。鳥越とりごえ下村古料しもむらこりよう・下村新料・七日市なのかいち河根川かわねがわ(現長岡市)五ヵ村の総鎮守。文政元年(一八一八)七日市・鳥越ほかの村々が出羽国上山藩の越後支領に属し、七日市に同藩の陣屋が置かれると、上山藩の祈願所となり、同年から慶応三年(一八六七)までの間、稟米四俵・金幣若干が奉納された。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]小浜市太興寺

太興寺たいこうじの中央南端に鎮座する。祭神大山咋おおやまくい神。旧村社。江戸時代は山王権現とも称し、松永まつなが谷七ヵ村の氏神であった。別当寺は明通みようつう寺。寛文三年(一六六三)八月の社殿再興勧進帳によれば、正応三年(一二九〇)八月上旬の創建で、伏見天皇から供料として田地二町二段を寄付され、恒例の祭礼は鄭重に行われ、儀式もおびただしくあったという。また当社は近江日吉社と一体で、毎年の祭礼も同日に行われたと伝える。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「日吉社四丁八百歩」のうち「松永保宮壱町八反百歩」があり、当社をさすと推定される。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]村松町村松 寺町

市街地の南端山王さんのう山にある。祭神は大己貴命・大山咋命。山王権現とも称した。旧郷社。延暦一五年(七九六)最澄が龍形山修学しゆうがく(現正円寺)を創建ののち、寺内鎮護のため同年八月一八日に近江国比叡山に鎮座する二柱の神を分霊勧請したと伝える。もとは正円寺とともに北東方向隣の丘陵臥龍がりゆう山にあった。社蔵の金剛仏師阿闍梨が奉納した鰐口には、永徳二年(一三八二)紀銘で「村松山王大権現」と刻される。村松城下町開発以来の氏神で、正保元年(一六四四)に堀直吉の入封以来、歴代藩主の崇敬厚く、年々社領米二石五斗の寄進があったという。弘化二年(一八四五)堀直央が現在地に新建奉遷し、正円寺も同時に移された。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]下田市箕作

東流する稲生沢いのうざわ川と南流する稲梓いなずさ川が合流する辺り、山中腹の字みやまえに位置する。主祭神は大山咋命。旧郷社。古くは宇土金うどがね椎原しいばら北湯きたゆ箕作みつくり四ヵ村の産土神として椎原にあった。社伝によると永享年間(一四二九―四一)に足利持氏の家臣鈴木采女之丞が主家のための祈願所として現在地に移し、山王大権現と称したという。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]中原区上丸子山王町一丁目

上丸子かみまるこの東方、旧中原道の渡船場に近い多摩川右岸の平地にある。祭神は大己貴神。古くは山王社と号し、丸子まりこ庄の鎮守であったと推定される。縁起(県史八)によれば大同四年(八〇九)の勧請で、平安末期には平重盛による社殿造営が行われたと伝える。現在、別当寺であった真言宗豊山派大楽だいらく院にある木造釈迦如来坐像は、永禄三年(一五六〇)から天正年間(一五七三―九二)に吉良氏朝が大檀越となり、家中衆らが結縁して釈迦堂へ施入したものである(同像胎内銘)

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]三和町北山田

北山田きたやまた集落西端、長井戸ながいど沼のヤト田を望む台地に鎮座。祭神は思兼命。旧村社。明治維新以前は山王さんのう大権現と称し、別当は仁連の東漸にれのとうぜん寺、祈願所は北山田の般若院(廃寺)で、境内地は寛文元年(一六六一)に免租地となり、例祭には宮田から収穫した新穀で神酒を造り、奉献したとも伝えられる。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]南区山王町五丁目

大岡おおか川が中村なかむら川と分れる地点の東にある。祭神は大山咋神・大己貴神。旧村社。通称お三の宮という。吉田よしだ新田の開拓者吉田勘兵衛良信が寛文一三年(一六七三)九月一〇日、江戸の山王権現(現千代田区)を勧請し、新田の鎮守とした。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]小浜市竹長

竹長たけながの西側山麓にある。山王社ともいう。祭神大己貴おおなむち神。旧村社。「若狭郡県志」は「宮川保之惣社也、二月八日祭日有神事能」と記す。社殿は天文年中(一五三二―五五)に焼失後仮殿となっていたが、寛文五年(一六六五)小浜町人田烏長左衛門が再建、「其節人足入次第ニ四ケ村割ニて相勤」めたという(清水文書)

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]筑波町田中

桜川西方に鎮座。祭神大山咋命。旧郷社。社前に馬場が残る。社伝によれば貞観二年(八六〇)の創建で、承久三年(一二二一)小田知重が社殿を再建し、田中庄内総鎮守となった。興国元年(一三四〇)火災に遭い、永享年中(一四二九―四一)小田孝朝が社殿を再建。その後何回かの再建があり、現在の社殿は慶長六年(一六〇一)造営といわれる(筑波郡郷土史)

元中一八年(一四〇一)の源朝臣某寄進状、明応五年(一四九六)の小田成治寄進状、永禄三年(一五六〇)の小田氏治寄進状、天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉禁制(→田中庄などの文書を蔵し、田中庄地頭田中氏、その本家小田氏との関係が深く、社家長田氏は田中氏の子孫とも伝えられる。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]山形市香澄町三丁目

江戸時代城下町であった八日ようか町に鎮座する。大山咋神を祀り、旧村社。例祭は六月第一日曜日。江戸時代には山王社と号し、町域北西部、二日ふつか町西端の三の丸の堀の外側に位置していた(正保城絵図)。山形城主最上兼頼が近江日吉社より分霊を城内に勧請したのに始まるという。城下の人々に「お山王様」とよばれていた。永正五年(一五〇八)最上義光の曾祖父義淳が社殿を造営し、義光は社領八石を寄進したと伝える。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]新治村沢辺・小野・東城寺入会地

東城寺とうじようじの東方、三方を田に囲まれた舌状地の先端部に鎮座する。祭神は大山咋命。旧郷社。沢辺さわべの山王様として知られる。社伝では大同二年(八〇七)に近江国坂本の山王社の神霊を分祀したという。正一位山王大権現と尊称され、「県方集覧」(酒井泉氏蔵)に「宮山王壱社。沢辺・東城寺・小野・大志戸・本郷・永井・小高・今泉八ケ村惣社也。

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]観音寺市柞田町 山王

延命えんめい寺の南東に接して鎮座。祭神大山咋神・大物主命。旧村社。寛元年間(一二四三―四七)延命寺が後嵯峨天皇の勅を賜り、近江日吉社山王権現を勧請したと伝える。年代はともかく、中世当地一帯は近江日吉社領柞田くにた庄であったので、庄鎮守として勧請されたものであろう。近世初期には武神として生駒氏の崇敬をうけたと伝え、寛永七年(一六三〇)には上坂勘解由玄信・上坂式部少貞信らが大旦那となって山王宮を上棟、同一五年には竹越道斎・生駒八兵衛・生駒主水・上坂勘解由春信、大庄屋井下弥右衛門らが大旦那となって拝殿を建立している(観音寺市誌)

日枝神社
ひえじんじや

[現在地名]千倉町白間津

海を望む段丘の上部に鎮座し、隣接してかつての別当寺円正えんしよう寺がある。祭神大山咋命。旧村社。延喜元年(九〇一)岩戸大納言義勝が京都より勧請したと伝え、旧称日ノ宮・山王大権現。近代に入り日枝神社と改称。祭神は農業の神として古くから氏子や近隣の人々の厚い信仰を受けてきた。四年ごとの大祭には、故郷を出た人々も帰って参加した。

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改訂新版 世界大百科事典 「日枝神社」の意味・わかりやすい解説

日枝神社 (ひえじんじゃ)

東京都千代田区永田町に鎮座。大山咋(おおやまくい)神を主祭神とし,国常立(くにのとこたち)神,足仲彦(たらしなかつひこ)神,伊弉冉(いざなみ)神を配祀する。旧称日吉山王権現(ひえさんのうごんげん),一般に山王さんと呼ぶ。太田道灌が1478年(文明10)武蔵国川越の無量寿寺に鎮座の山王権現を,江戸城内の北の曲輪,梅林中に遷座,城の鎮守としたことにはじまり,1590年(天正18)徳川家康が入城ののち,近江国坂本の日吉山王権現(日吉(ひよし)大社)とともに紅葉山に奉斎した。のち江戸城の改築にともない,半蔵門外に遷座したが,1657年(明暦3)江戸の大火で社殿焼失,ために将軍家綱は赤坂の現在地にあった松平忠房邸地を接収,社殿の造営にあたった。59年(万治2)竣工,以後歴代将軍は府内第一の名社として崇敬,将軍宣下その他の大事に太刀,神馬を奉納して祈願,またしばしば社参し,毎年正月と6月には例幣使を遣わした。朱印領600石,諸大名以下庶民からも広く崇敬され,明治天皇は遷都とともに勅祭社に準じた社とした。旧官幣大社。例祭は6月15日で,江戸時代より中心地の名社の祭礼として,山王祭,御用祭,天下祭などとよばれ,神田祭,浅草三社祭とともに,江戸三大祭の一つとされる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日枝神社」の解説

日枝神社
ひえじんじゃ

江戸山王権現・日吉(ひえ)山王権現とも。東京都千代田区永田町に鎮座。旧官幣大社。主神は大山咋(おおやまくい)神,相殿神に国常立(くにのとこたち)神・伊邪那美(いざなみ)神・足仲彦(たらしなかつひこ)尊。南北朝期以前に江戸重長が武蔵国河越荘の新日吉(いまひえ)山王宮より勧請したとも,また太田道灌(どうかん)が文明年間に武蔵国入間郡星野山より山王三所を移したともいう。近世,江戸城内から紅葉山・西貝塚をへて,1659年(万治2)現在地に移る。将軍もたびたび参詣するなど,幕府の直轄社として厚い崇敬をうけた。1868年(明治元)現社名に改称。例祭は6月15日の山王祭。

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百科事典マイペディア 「日枝神社」の意味・わかりやすい解説

日枝神社【ひえじんじゃ】

東京都千代田区永田町に鎮座。旧官幣大社。大山咋(おおやまくい)命をまつる。太田道灌が江戸城内にまつったのに始まるという。山王権現とも。6月15日の例祭は山王祭と称し江戸二大祭の一つ。
→関連項目神田祭(行事)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日枝神社」の意味・わかりやすい解説

日枝神社
ひえじんじゃ

東京都千代田区永田町に鎮座する元官幣大社。山王権現,山王社ともいう。オオヤマクイノカミを主神とし,クニノトコタチノカミ,アシナカヒコノミコト,イザナギノミコトを祀る。徳川家の産土神。例祭は6月 15日で山王祭,天下祭と呼ばれ,神田神社の神田祭とならんで江戸二大祭として知られる。銘則宗の太刀 (国宝) を所蔵。

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デジタル大辞泉プラス 「日枝神社」の解説

日枝神社〔東京都〕

東京都千代田区にある神社。旧官幣大社。主祭神、大山咋神(おおやまくいのかみ)のほか、国常立神(くにとこだちのかみ)・伊弉冉神(いざなみのかみ)・足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。古くは江戸城鎮守として知られた。6月の例祭「山王祭」は、神田祭と並ぶ天下祭として有名。

日枝神社〔岐阜県〕

岐阜県高山市にある神社。1141年創祀と伝わる。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。4月に行われる例祭「山王祭」は「高山祭の屋台行事」のひとつとして国の重要無形民俗文化財に指定。飛騨山王宮とも呼ばれる。

日枝神社〔埼玉県〕

埼玉県川越市にある神社。東京都千代田区赤坂にある日枝神社は、江戸城築城の際に分祀したものとされる。室町時代後期に建てられた本殿は国の重要文化財に指定されている。

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事典・日本の観光資源 「日枝神社」の解説

日枝神社

(東京都千代田区)
東京十社」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の日枝神社の言及

【山王祭】より

…東京都千代田区にある日枝(ひえ)神社の祭礼。狭義にはとくにその神幸祭をいう。…

【鎮守】より

…《上野国神名帳》に鎮守十二社とあるように複数をあげる例もあり,《二十一社記》にも〈王城鎮守とて廿一社を定置〉とある。城内鎮守として有名なのは,1590年(天正18)に徳川家康が江戸城内の旧祠山王権現を鎮守として紅葉山にまつり,後に赤坂山王(現,日枝神社)を建立した例がある。また《江戸砂子》には,富岡八幡宮に〈当社四隅鎮守〉として丑寅(東北)の鬼門に蛭子神など境内の四方に鎮守神をまつったことを記している。…

※「日枝神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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