本庄重政(読み)ほんじょうしげまさ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「本庄重政」の意味・わかりやすい解説

本庄重政
ほんじょうしげまさ
(1606―1676)

通称杢左衛門(もくざえもん)、憐情(れんじょう)と号す。福山藩水野氏の家臣。尾張(おわり)国(愛知県)に生まれ、備後(びんご)国松永(広島県福山市)で没す。兵法に通じ、若いころ諸国を流浪、32歳のとき寺沢兵庫頭堅高(ひょうごのかみかたたか)に属して島原一揆(いっき)の鎮圧に参陣。岡山藩池田氏、赤穂(あこう)藩浅野氏に招かれたのち、1654年(承応3)福山に移り、福山藩主水野勝俊(かつとし)に、長子杢(もく)の後見として500石を与えられる。60年(万治3)より干拓普請奉行(ふしんぶぎょう)として松永湾岸村々の干拓・新涯(しんがい)造成を指揮し、高須(たかす)・柳津(やないづ)・手城(てしろ)・金見(かなみ)新涯や、松永塩田など多くの新田・塩田を築造。福山城下神島(かしま)町の承天寺(しょうてんじ)を松永に移したが、その境内に1759年(宝暦9)松永村庄屋(しょうや)・村人らによって本庄神社が創建され、その祭神として崇(あが)められた。

[土井作治]

『『福山市史』中巻(1986・福山市)』

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朝日日本歴史人物事典 「本庄重政」の解説

本庄重政

没年:延宝4.2.15(1676.3.29)
生年:慶長11(1606)
江戸前期の兵法家,土木事業家。字は憐情,通称杢左衛門,露石と号した。父重紹は佐々成政,水野勝成に仕えた。重政は岡山の池田光政に仕えたのち浪人,承応3(1654)年長子杢を福山藩主水野氏に出仕させ,その後見人として500石を受ける。領内各地の新田開発にたずさわり,万治3(1660)年神村・柳津(福山市)沖の干拓に着手,塩浜39町余を開き,商人を招いて街を設け,寛文7(1667)年に完成し,松永と命名した。没後その恩恵を慕う住民たちにより宝暦9(1759)年に本庄神社(福山市)が創建された。現在,祭礼日は4月15日。菩提寺承天寺(同)には本庄家文書が残されている。<参考文献>村田露月編『松永町史』

(渡辺則文)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本庄重政」の解説

本庄重政 ほんじょう-しげまさ

1606-1676 江戸時代前期の武士,開拓者。
慶長11年生まれ。兵法,武芸に通じ,島原の乱で寺沢堅高(かたたか)に属して功をたてる。承応(じょうおう)3年備後(びんご)(広島県)福山藩に長男杢をつかえさせて後見し,柳津,深津などに新田を開発。のち松永湾の干拓に着手,入浜式塩田をつくり松永塩田と名づけた。延宝4年2月15日死去。71歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。字(あざな)は憐情。通称は杢左衛門。号は露石。

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