木戸村(読み)きどむら

日本歴史地名大系 「木戸村」の解説

木戸村
きどむら

[現在地名]光町木戸

現光町の南端に位置し、南西は栗山くりやま川を境に上総国武射むしや屋形やかた(現横芝町)、北は目篠めじの村・原方はらかた村、北東は尾垂おだれ村、南東は九十九里浜に面する。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属したとみられ、在地領主としては千葉氏系の椎名氏が知られる。「蓮門精舎旧詞」によると、正嘉二年(一二五八)四月、椎名八郎入道の招きで米倉よなぐら(現八日市場市)の「談所」(善導寺)にあった然阿良忠が、当地の領主椎名小次郎胤広の要請によって「尾垂木戸村」に光泉こうせん寺を創建したという。千葉大系図は福岡八郎を称する椎名胤業の子息に小田部胤忠(次郎)を載せ、胤広(小次郎)・胤賢(中務大輔)と継いで柴崎氏を称している。また光泉寺北方の長塚ながづかに残る木戸塁(平野内館跡)は椎名氏屋敷跡とも伝える。

木戸村
きどむら

[現在地名]大垣市木戸町・宝和町ほうわちよう

杭瀬くいせ川左岸、大垣輪中の西部に位置し、東は牛屋うしや村。古くは若森わかもり郷、または大井おおい庄に属したといわれ(新撰美濃志)、天文年間(一五三二―五五)頃には、大垣城主宮川安定の弟宮川八左衛門が木戸邑に居住していたとされる(美濃明細記)。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高一千一二四石。正保郷帳では田高九三六石余・畑高二六七石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高一千三石余。天保郷帳では高一千四二三石余。正保元年(一六四四)の家数九四、弘化三年(一八四六)の家数七九(新修大垣市史)

木戸村
きどむら

[現在地名]志賀町木戸

村域は琵琶湖畔から西の山中に延び、南は守山もりやま村。天正一一年(一五八三)八月の御蔵入目録(浅野家文書)に木戸とあり、高一千三〇〇石。寛永石高帳に高六一六石余とあり、幕府領。慶安高辻帳では田方四四三石余・畑方六一石余・永荒一一二石余。元禄郷帳では高六四三石余。文政石高帳では宮川藩領。当村・南船路みなみふなじ村・北船路村・守山村・荒川あらかわ村の五ヵ村は木戸五ヵ村と称し、一つの浦として活動した。慶安二年船数帳では「木戸五ケ村」で一人加子の船三〇艘をもっていた。

木戸村
きどむら

[現在地名]庄原市木戸町

恵蘇えそ郡最南端の村で、国兼くにかね川の東側に位置する。標高三〇〇メートル前後の七塚原ななつかはら高原の南西に連なる丘陵地の間に耕地があり、山裾に集落が点在する。東は三谿みたに仁賀にか村・田利たり(現双三郡三良坂町)、南は同郡和知わち(現三次市)、西は尾引おびき村に接する。大仙畦山だいせんうねやま古墳群・胡子坂えびすざか古墳群・鍛冶屋池かじやいけ古墳群など多数の古墳が分布し、中組なかぐみに古墳時代の住居跡がある。

中世には比叡山延暦寺領泉田いずみだ庄に含まれる。江戸時代には広島藩領で、寛永九年(一六三二)から享保五年(一七二〇)の間は三次藩支配で、村高は元和五年(一六一九)の備後国知行帳では四八二石余。

木戸村
きどむら

[現在地名]館林市木戸町

北を矢場やば川が北東へ流れ、西北でうば川が合流。西端を北流する(現多々良川)は、かつての矢場川で南流していた。東は傍示塚ほうじつか村、西は日向ひなた村、南は高根たかね村、北は下野国梁田やなだ郡下日向村(現栃木県足利市)。乾元二年(一三〇三)閏四月一二日の足利貞氏下文案(倉持文書)に「足利庄内木戸郷」とみえ、祖母一期知行の後、倉持師経へ譲られ安堵を受けた。木戸郷内の屋敷一所・田一町は師経から弟師忠へ(延慶二年六月一六日「足利貞氏下文」同文書)、さらに元徳三年(一三三一)六月七日には師忠の嫡子胤忠へ譲られた(「倉持行円譲状」同文書)

木戸村
きどむら

[現在地名]安城市木戸町

東と南は矢作川をもって高落たかおち村・西浅井にしあさい(現西尾市)と境し、西は寺領じりよう村・藤井ふじい村に隣する。村の西を鹿乗かのり川が西南流する。志貴しき庄に属する。「三河国二葉松」に「木戸村古城 二ケ所ノ内一ケ所社地被成」とあり、集落の南二〇〇メートルほど離れた地点にある春日かすが神社の境内地が木戸城跡で、戦国期成瀬藤五郎直庸の拠ったところという。社殿の裏は、堀の形態をとどめている。他の一ヵ所は石川式部の砦のあったところで、東屋敷とよばれていた。

木戸村
きどむら

[現在地名]関城町木戸

つじ村の南、藤谷ふじがや村の東に位置する。中世は下妻庄に属し、戦国時代は多賀谷氏の支配下にあった。慶長七年(一六〇二)天領となり、寛永一〇年―天和元年(一六三三―八一)は古河藩領(寛政重修諸家譜、寛文朱印留)、その後天領となり、元禄一〇年(一六九七)西河内にしかつち郡二三ヵ村の堤川除普請が行われた時の人足割之覚(渡辺哲家文書)には「外山小作御代官所 木戸村 高七百七拾石六斗六合」とみえる。

正徳二年(一七一二)村内の三八四石余が下妻藩領となる(寛政重修諸家譜、「下妻藩領村高控書」外山家文書)

木戸村
きどむら

[現在地名]當麻町大字木戸

長尾ながお村東方、竹内たけのうち街道北側に所在。慶長郷帳にはみえず、元和郷帳の村高二八九・六七石、領主は旗本水野長勝。慶長七年(一六〇二)長勝が現京都市の伏見ふしみ城の城番となった時、宇智・葛下・式下三郡で二千石の加増を受け、その御知行之目録(水野家々譜)に「一弐百七拾三石三斗壱升六合  木戸村和州葛下郡之内」とみえ、江戸初期から明治維新まで水野氏領。

木戸村
きどむら

[現在地名]洲本市木戸

木戸新村の南西、北東流する洲本川支流樋戸野ひどの川の上流域にある。南西は金屋かなや村。三原みはら郡に属する。もとくぬぎ村と称したといわれ(淡路草)、「味地草」によると宝永三年(一七〇六)に樸林を開発して田圃としたという。天保郷帳に村名は記されない。中筋組に属した。反別戸数取調書によれば反別三二町一反余、高二二四石余はすべて蔵入地。

木戸村
きどむら

[現在地名]成東町木戸

小松こまつ村の東に位置し、木戸川が流れ、海岸部に木戸浜の集落がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五五石。正保国絵図では高九九石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では木戸組に属し、高四一四石、旗本森山領。元禄郷帳では高四五五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳ではほかに幕府領がみえ、家数一〇四。

木戸村
きどむら

[現在地名]八尾市東本ひがしほん町一―五丁目など

八尾八ヵ村の一で西郷さいごう村の東にある。村中を東西に八尾街道が走る。若江郡に属し、村高は正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳で二七八石余、延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では三三七石余。元文二年(一七三七)の河内国高帳で三二八石余。

木戸村
きどむら

[現在地名]能都町本木ほんき

山田やまだ川の支流本江ほんごう(本郷川)流域に位置する。正保郷帳に村名がみえ高二〇石余、田方一町・畑方三反余。承応三年(一六五四)の村御印の高二〇石余、免五ツ一歩(能登奥両郡収納帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報