大垣輪中(読み)おおがきわじゆう

日本歴史地名大系 「大垣輪中」の解説

大垣輪中
おおがきわじゆう

当市域の旧安八あんぱち郡域とほぼ一致する複合輪中。明治二〇年代の西濃全図(和田家蔵)に大垣輪中と記され、堤が巡らされていることがわかる。南半の低位部にある古宮ふるみや輪中・西中之江にしなかのえ輪中・禾森のぎのもり輪中・伝馬町てんまちよう輪中・今村いまむら輪中の小輪中を内包し、狭義にはこれら小輪中を除いた高位部の輪中地域のみをさすこともある。東を揖斐いび川が、西を杭瀬くいせ川が南流し、杭瀬川あい川・牧田まきだ川と合流、市域南端で揖斐川に合流する。北東の安八郡神戸ごうど町との境を平野井ひらのい川が南東流している。鎌倉初期より東大寺領大井おおい庄の灌漑用水にかかわり笠縫かさぬい堤が問題とされているなど(正治二年四月日「美濃国在庁官人等解状案」京都大学蔵東大寺文書)、中世より当地の堤の存在が知られるが、輪中の成立を寛永一三年(一六三六)水門すいもん川の門樋設置と懸廻堤の築造に求める説もある。慶安三年(一六五〇)の大洪水(寅年の洪水)以後、大垣藩は輪中堤の補強とともに、揖斐川右岸の現神戸町域の尾張藩領を借りて自普請で堤防を築き、大垣輪中の洪水防御とした。また堤奉行を置き、「一、出水之節大川通水及五合は、其持堤之頭並大目付方に堤下之村々より早々注進可仕之旨、兼而郡奉行可申付之事」など一一条の定めを決め、藩内の河川堤防の管理を各重臣に割当て、標柱を立ててその持場を示す一方(寛保二年「大垣藩水帳定写」林文書)、各自の持場をさらに明確化するため、堤持口絵図(江馬家蔵)を作成している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報