新家村(読み)にのみむら

日本歴史地名大系 「新家村」の解説

新家村
にのみむら

[現在地名]久居市新家町

川方かわかた村の東方にあたり、雲出くもず川左岸水田地帯の北方、河岸段丘上にあるが、もとはその麓の水田地帯に位置していた。この地は地形上しばしば雲出川の氾濫による水害を受けていた。とくに寛保元年(一七四一)の水害は激甚を極めたので、補助金三二三両を下付されて、全戸が現在の高台へ移ったことが知られる(久居市史)。いま旧地には物部もののべ神社だけが現存し、小字名に元屋敷もとやしきとか市場いちばの地名が残っている。「新家」の地名は、古代に新しく屯倉や郡家などを設けたとき、これを新家(にいのみ)と称したことに基づくが、この一志郡の「新家」は「日本書紀」宣化天皇元年条で、諸国屯倉の穀物を九州筑紫へ運送させたことを記すなかで「物部大連麁鹿火は、新家連を遣して、新家屯倉の穀を運ばしむべし」とある記事の「新家」に比定されている。

新家村
しんげむら

[現在地名]泉南市新家

樫井かしい川の支流新家川流域に広がる大村。村の南部は丘陵および山間地で、北部に平地が広がる。村域内には弥生時代遺跡として新家しんげオドリやま遺跡・向井山むかいやま遺跡、古墳時代後期の新家古墳群・フキアゲやま古墳群などが確認され早くから開かれた地であった。

御室御所高野山御参籠日記」久安三年(一一四七)五月四日条に「新家庄」とみえる。平安時代末期以降京都仁和にんな寺領新家庄の地。康正三年(一四五七)六月二六日の日根郡国人等契約状(日根文書)によると、当地の国人と思われる新家影頼以下、鳥取・淡輪・箱作・籾井・上郷・日根野の各氏等九人は「公私万事」につき「一味同心」すべきことを契約している。「政基公旅引付」によると、文亀二年(一五〇二)八月、和泉守護に背いて根来ねごろ(現和歌山県那賀郡岩出町)惣分方に一味した佐藤惣兵衛は、日根ひね(現泉佐野市)などに出陣し国衆と合戦に及んだが、二二日の夕方には退散した。

新家村
しんけむら

[現在地名]東淀川区菅原すがはら一―四丁目・同六―七丁目・豊里とよさと一丁目・豊新ほうしん一丁目

淀川に沿う村で、北は上新庄かみしんじよう村・下新庄村、西は二重堤逆ふたえづつみさか川跡を境界として高畑たかばたけ村・増島まじま村。当初は開発者三島江屋太郎兵衛の名をとって太郎兵衛新家たろべえしんけ(寛永―正保期摂津国高帳)、また二重堤逆川にちなんで二重新家ふたえしんけ(淀川両岸一覧)とも称したが、後年新家村とのみ称するようになった。二重堤逆川の河川敷および旧堤防が寛永初年に開拓され、成立したのが当村で、集落は東西堤防の上を帯状に二重に並ぶ。寛永五年(一六二八)一一月、開発者三島江屋太郎兵衛と粟原中義に宛てた代官豊島十左衛門定書(一柳家文書)に当村を「北中島之内上島かぶと同二重堤之内、同両堤かぶと外島新田」と記し、翌年から三ヵ年間の年貢諸役を免除している。

新家村
しんけむら

[現在地名]東大阪市新家西しんけにし町・新家中しんけなか町・新家東しんけひがし町・新家

若江郡に属し、荒本あらもと村の西にある。平坦地で、南はくらがり峠越奈良街道を境にして岩田いわた村・御厨みくりや村。大和川付替え後、西の村境を流れていた楠根くすね川川床に菱屋中ひしやなか新田が開発された。根来ねごろ(現和歌山県那賀郡岩出町)豊臣秀吉に焼かれたのち、寺侍規矩九右衛門が弟新三郎とともに当地に来て元和二年(一六一六)から開拓したという。このため根来新家という称もあった(大阪府全志)

新家村
しんけむら

[現在地名]平群町吉新よししん一―四丁目

吉田よしだ村の枝郷で、同村東に所在。慶長郷帳などにはみえず、寛文一〇年(一六七〇)に平群郡下で知行地を得た旗本溝口信勝(奈良奉行)の所領のうちに村の名がみえるので、これ以前に吉田村から分離独立。天和二年(一六八二)幕府領。元禄一五年(一七〇二)から宝永二年(一七〇五)まで武蔵川越藩(柳沢吉保)領、のち幕府領。

天和二年以降の幕府領時の代官は川合次郎左衛門、元禄元年から今井九右衛門、同四年から辻弥五左衛門、同九年から大柴清右衛門、同一三年から石原新左衛門、川越藩領を経た宝永二年から石原新左衛門、同七年から石原新十郎、享保六年(一七二一)から角倉与一、寛保元年(一七四一)から芝村藩預所、明和三年(一七六六)から辻六郎左衛門、同五年から稲垣藤左衛門、同七年から小堀数馬、安永六年(一七七七)から高取藩預所、天保元年(一八三〇)から近江大津代官所支配、同六年から石原清左衛門、同一四年から都筑金三郎、弘化二年(一八四五)から大津代官所、安政五年(一八五八)から石原清一郎、慶応二年(一八六六)から大津代官所となっている。

新家村
しんけむら

[現在地名]高石市取石とりいし四丁目・同六丁目・西取石にしとりいし三丁目・同五丁目

綾井あやい五ヵ村の一で、田地入組みのため村境は分けがたいが、西は市場いちば村に、南は大園おおぞの村に接する。観応二年(一三五一)五月日付の大鳥庄上条地頭田代顕綱代光重目安状案(田代文書)に、地頭の一円進止である大鳥おおとり(中心は現堺市)上条かみじよう内松近・友貞名に対し、違乱を働いた「新家春虎左衛門尉并式部法橋」の名がみえる。新家氏は取石氏の分派で、在地の名をとって姓としたと考えられる。江戸時代前期は綾井村のうち(→市場村。延宝五年(一六七七)の綾井村年々下札写(井上家文書)によると、寛文四年(一六六四)の新家村の高一二九石余。

新家村
しんけむら

[現在地名]富田林市新家

東・北は甲田こうだ村、ほぼ平坦地に位置する。錦部にしごり郡内の岩井芝を開発し、かつては神慶村、のちに新家村と称したというが(大阪府全志)、「河内志」に「新家一名岩井」、元文二年(一七三七)の河内国高帳には新家村の項に「か名岩井ト云」とあり、岩井いわい村ともよばれたようである。東部に字岩井がある。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二〇二石余、以降幕末まで大きな高の変化はない。寛永一一年(一六三四)近江膳所藩領、延宝七年(一六七九)本多忠恒(西代藩)領、享保一七年(一七三二)本多忠統の伊勢神戸かんべ転封に伴い同藩領となり幕末に至る。

新家村
しんけむら

[現在地名]芦原町城新田じようしんでん

日本海の砂浜近くにあり、東方にあるじよう村を本村とする。正保郷帳には記載がなく、元禄郷帳から記される。

村の成立について城村の朝倉家文書に、城村の天池あまいけとよばれる溜池のあった土地へ加州牢人長兵衛・作助が住みつき、山林を開発、その後家数も増えて一村に発展したことが述べられている。また城村の免状(同文書)では、貞享四年(一六八七)になって、前年の免状には記されていない城村新田分六・四〇九石が本村分一二五・八石とは別に記され、この高に一割四分、八斗九升七合の年貢が課されている。慶長三年(一五九八)の検地帳の末尾部分を江戸時代中期に記録した古検帳寄写(土屋家文書)には、慶長三年以降の検地帳も一部用いられているが、当村の記載もあり、屋敷四反二畝のほか、耕地はすべて畑地であり、中畑三反七畝余・下畑九反七畝余・下々畑二反九畝余・荒畑九反一畝余と痩せ地が多く、貞享四年以前は米ではなく稗で三石六斗の年貢を納めていた(朝倉家文書)

新家村
しんけむら

[現在地名]富田林市喜志新家きししんけ町一―二丁目

現富田林市最北部に位置する。石川郡に属し、北は古市郡新家村(現羽曳野市)、東・南・西は喜志村。古市郡の新家村に対し南新家みなみしんけ村ともよばれた。元和八年(一六二二)喜志村から分村したと伝え(「石川郡二十四ケ村明細帳」浅尾家文書)、「河内志」に載る「荒田新町」にあたると思われる。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高三二二石余、幕府領。享保八年(一七二三)までの領主の変遷は富田林村に同じ。

新家村
しんけむら

[現在地名]平野区加美南かみみなみ二丁目・同四―五丁目・加美東かみひがし六―七丁目

河内国渋川郡に属し、鞍作くらつくり村の東にある。地形は平坦で南北に長く、南の村境を流れる平野川沿いに奈良街道が通る。延宝七年(一六七九)鞍作村より分れた(加美村誌)。同村の枝郷で元禄郷帳に村名がみえ、郷村帳類には鞍作新家村とも記される。村高は分村時の四七一石余で変化なし(同書)

新家村
にいえむら

[現在地名]中川区富田とみだ町新家

東は千音寺せんのんじ村に接し、西を福田ふくた川が流れる。「屋張国地名考」に「此むらの辺は鎌倉の頃は新治にひばりなるべし」とあり、富田庄絵図(円覚寺蔵)に新家里とみえる。寛文一一年(一六七一)の家数三一、人数一五三(寛文覚書)

新家村
にいやむら

応保二年(一一六二)六月三日の香取社大禰宜大中臣実房譲状(香取文書)に載る金丸かねまる名・犬丸いぬまる名条里坪付の三条四里に「新家里」、村々名畠坪付に「新家村林六町二所各三町 西佐山云、東ハ佐男云 五代以降畠作」とある。読みは未詳だが、ニイヤであろう。香取社領の条里は擬制的なものにすぎず、坪付は検注取帳の記載順序を示し、香取社領条里の想定図(復原図)では三条四里の新家里は現佐原市新部につぺ付近に比定されている。

新家村
しんけむら

[現在地名]羽曳野市尺度しやくど

古市郡に属し、西坂田にしさかた村の南東に隣接する。「大阪府全志」は坂田村が元和元年(一六一五)東坂田・西坂田・新家三ヵ村に分れたとし、元禄三年(一六九〇)の古市郡村々明細書(松倉家文書)は、七七年以前すなわち慶長一八年(一六一三)西坂田村の出郷になったと記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報