古市郡(読み)ふるいちぐん

日本歴史地名大系 「古市郡」の解説

古市郡
ふるいちぐん

和名抄」にみえ、訓は高山寺本に「コチ」、東急本に「不留知」とある。摂津国東生ひがしなり郡や近江国滋賀郡の古市郷の訓は「不留智」「布留知」であるので(和名抄)、「ふるち」が本来の訓であろう。のち「ふるいち」とよばれるようになったらしく、「拾芥抄」にその訓注があり、近代の郡名の訓は「ふるいち」(内務省地理局編纂「地名索引」)

〔古代〕

「和名抄」によれば新居にいい尺度さかと坂本さかもと・古市の四郷からなり、令制の区分では下郡にあたる。郡域は時代によって変化したが、立郡当時の郡域を考えるうえで重要なのは条里制の復原である。当郡の坪並は南西隅を一坪とし、北西隅を三六坪とする連続式で、条は南北に通って西から一条とし東は五条に至る。現羽曳野はびきの市の軽里かるさと西浦にしうら蔵之内くらのうち尺度しやくどを含む南北線を一条とし、石川の東岸の壺井つぼい通法寺つうほうじを含む線を五条とする。里は南から北に配置されるが数詞でなく固有名詞で表現され、北は羽曳野市の誉田御廟山こんだごびようやま古墳(応神陵に治定)の南の復原された丹比たじひ道の東西線、南は尺度と富田林とんだばやし喜志きしの東西の境線の範囲に求められる。北方の志紀郡と条の南北線は共通であるが、志紀郡の場合、坪並は南東隅を一坪とし北東隅を三六坪とし、条は東を一条として西に向かっていて、郡によって条里の基準線を異にしていたことが知られる。郡域はその後変遷し、「延喜式」(諸陵寮)には志紀郡所在と記される応神陵が、中世以降は古市山陵とよばれるようになり、誉田御廟山古墳のある誉田の北半部(丹比道の北、志紀郡に属したとみられる)の地域が当郡内に含まれるに至っている。また同じく古代には安宿あすかべ郡であったこまたに飛鳥あすかの地域(同郡賀美郷)、また古代には石川郡に属した大黒おぐろ・壺井・通法寺の地域(同郡大国郷)も近世には古市郡に属した。近世の郡域は現在の羽曳野市の中央部にあたる。郡内の式内社としては利鴈とかり神社と高屋たかや神社があり、いずれも小社である。

当地域の歴史に大きな変化をもたらしたのは、当郡の北方に隣接する志紀郡域に、四世紀末から五世紀代の津堂城山つどうしろやま仲津山なかつやま(仲津姫命陵に治定)、誉田御廟山、市野山いちのやま(允恭陵に治定)などの巨大古墳が相次いで造営されたことである(誉田御廟山を除いて現藤井寺市)。当郡域にはこれに続く五世紀末から六世紀代の大古墳が次々に造営されている。白髪しらが古墳(河内坂門原陵=清寧陵に治定)高屋築山たかやつきやま古墳(古市高屋丘陵=安閑陵に治定)はいずれも「延喜式」(諸陵寮)に記され、このほか前の山まえのやま古墳(日本武尊白鳥陵に治定)墓山はかやま古墳など、主として六世紀代の代表的大古墳が集中している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報