生駒郡(読み)いこまぐん

日本歴史地名大系 「生駒郡」の解説

生駒郡
いこまぐん

面積:五二・一一平方キロ
平群へぐり町・三郷さんごう町・斑鳩いかるが町・安堵あんど

県北西部に位置し、生駒山地矢田やた丘陵の傾斜地(平群谷)と大和川北岸の平坦地からなる。北は生駒市、東は大和郡山市、南は大和川を挟んで北葛城郡・磯城しき郡、西は生駒山地を境として大阪府。古代の平群郡の一部。

〔原始・古代〕

縄文・弥生期の顕著な遺跡は分布しないが、縄文土器は矢田丘陵南麓の斑鳩町で中期から後期のものがわずかに採取されている。弥生期の遺跡も乏しいが、斑鳩町神南じんなんから中期以降の土器や石器が出土し、高地性の遺跡の一つとして注目される。古墳は前期のものから終末期の古墳までみられるが、平群谷と大字法隆寺ほうりゆうじ周辺に分布する。平群谷は横穴式石室の後期古墳がほとんどであるが、県下では最も古式の横穴式石室の椿井宮山つばいみややま古墳など著名なものが多い。法隆寺周辺では、大字五百井いおい斑鳩大塚いかるがおおつか古墳が前期古墳、瓦塚かわらづか古墳や駒塚こまづか古墳が大型の中期前方後円墳として知られるが、御坊山ごぼうやま古墳は数少ない終末期の古墳であった。このほか仏教関係の遺物を出土した仏塚ほとけづか古墳や、県下では珍しいてら山の横穴群もみられる。

五世紀末から六世紀初頭には平群谷に平群氏が勢力を振るい、平群臣真鳥は雄略天皇のときに大臣の位につき、国政を専横して日本の王たらんとし、皇太子のためと称して造営した宮に自ら住み(日本書紀)、その子鮪の時にも朝廷の人々は朝は朝廷に昼は鮪の家に参集するありさまであったという(古事記)。しかし、鮪は武烈天皇と物部麁鹿火の娘影媛を争って殺され、平群氏は衰退していく。平群氏の寺としては平隆へいりゆう(現三郷町)が建てられている。また平群氏と同族と伝える木(紀)氏も平群谷に居住したと考えられ、式内平群坐紀氏へぐりにいますきうじ神社が鎮座する。

生駒郡は河内への交通の要地にあることから、聖徳太子が平群郡斑鳩の里に宮宅を設けて私寺を建立。斑鳩寺(法隆寺若草伽藍)法起ほつき寺・いかるがにん尼寺(中宮寺)法輪ほうりん寺などが現斑鳩町内に創建された。

古代の平群郡を構成する郷には、那珂なか飽波あくなみ・平群・夜麻やま坂門さかと額田ぬかたの六郷があったが、額田郷が現大和郡山市に比定される以外は、いずれも現生駒郡内の大和川北岸の平地に比定されている。

式内社としては、平群郡二〇座のうち一七座(大一〇座、小七座)が現生駒郡内に比定されている。また郡域の西端、河内国高安たかやす郡との境にある生駒山地の高安山(四八八メートル)には、白村江の敗戦後、大陸からの侵寇に備えて高安城が築かれ、昭和五三年(一九七八)その遺構の一部が出土した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報