日本大百科全書(ニッポニカ) 「戸塚」の意味・わかりやすい解説
戸塚
とつか
横浜市南西部の区名および地区名。この地区は、1939年(昭和14)戸塚区となり、1969年(昭和44)北部が分離して瀬谷(せや)区が設置され、さらに1986年戸塚、栄(さかえ)、泉(いずみ)の3区に分区された。地区のほぼ中央部を南北にJR東海道本線・横須賀(よこすか)線と国道1号、東西に横浜市営地下鉄1号線、南部に根岸(ねぎし)線、また北部に相模(さがみ)鉄道いずみ野線が通じる。東海道本線の通る柏尾(かしお)川の本・支流の谷は、多摩丘陵(たまきゅうりょう)南部の侵食谷である。これらの谷を中心とする一帯は古くから開け、周辺の丘陵上には古墳群がみられ、これにちなんで富塚(とみづか)といわれたのが地名の起源とされる。東海道の戸塚宿があった所で、1604年(慶長9)に一般の宿場町よりもわずか遅れて伝馬宿に定められ、江戸―小田原間の中間にあたっていて栄えた。宿内は戸塚、吉田、矢部の3町からなり、宿の成立当時、町場を形成していたのは富塚(戸塚)あたりだけで、ほかは田畑の広がる農村地帯であった。第二次世界大戦中から京浜の化学、ゴム、電気器具、食料品などの内陸型大工場が進出し、湘南工業地域(しょうなん)の東部に入れられている。近年、丘陵上には公私の大規模住宅団地が建設され、この地区は横浜市域における人口のドーナツ型急増地域である。
北東の旧東海道の境木(さかいぎ)峠を南へ下った品濃(しなの)坂には一里塚(県指定史跡)が原型に近い形を残している。また、戸塚町の西の汲沢(ぐみざわ)町から原宿町にかけた国道1号沿いの松並木には旧東海道のおもかげがしのばれる。花の名所とうたわれた柏尾川堤のサクラは、いまも地元民と進出工場の協力で補植、新植されてよい風致を保っている。東海道本線に近い下倉田(しもくらた)町の鎌倉街道沿いの大わらじ(長さ約5メートル)は道中安全祈願を受け継ぐものとして有名。栄区上郷(かみごう)町の証菩提寺(しょうぼだいじ)は、源頼朝(よりとも)が石橋山合戦で討ち死にした佐奈田義忠(さなだよしただ)のために建立したものといわれ、木造阿弥陀(あみだ)如来及両脇侍像は国指定重要文化財。栄区田谷(たや)町にある定泉(じょうせん)寺境内の田谷洞窟(どうくつ)へは参拝者が多い。
[浅香幸雄]