藤沢(読み)ふじさわ

精選版 日本国語大辞典 「藤沢」の意味・読み・例文・類語

ふじさわ ふぢさは【藤沢】

神奈川県南東部の地名。相模湾に面する。室町時代から清浄光寺(しょうじょうこうじ)門前町、江戸時代には東海道五十三次戸塚と平塚の間の宿駅として発達北部相模原台地には工業団地も形成されて工場が進出し、京浜工業地帯の周縁部にあたる。南部の湘南砂丘地帯は住宅地。昭和一五年(一九四〇市制

ふじさわ ふぢさは【藤沢】

姓氏の一つ

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「藤沢」の意味・読み・例文・類語

ふじさわ【藤沢】[地名]

神奈川県中南部の市。相模湾に面する。東海道宿場町遊行寺ゆぎょうじの門前町として発展。京浜工業地帯の一部で、片瀬江ノ島鵠沼くげぬまなどは海水浴場行楽地人口41.0万(2010)。

ふじさわ【藤沢】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「藤沢」姓の人物
藤沢周ふじさわしゅう
藤沢周平ふじさわしゅうへい
藤沢利喜太郎ふじさわりきたろう

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「藤沢」の意味・わかりやすい解説

藤沢[市] (ふじさわ)

神奈川県の中央部に位置し,相模湾に面する市。1940年市制。人口40万9657(2010)。市域は相模湾岸の砂丘地帯から,相模野台地の南部まで南北に広がる。近世には時宗の総本山清浄光(しようじようこう)寺(遊行(ゆぎよう)寺)の門前町,東海道の宿場町として栄えた。1887年東海道本線が通じ,藤沢駅が設けられたことから,駅の北側に市街地が形成され,また湘南の観光・保養地として発展した。1902年藤沢駅から片瀬川河口部の片瀬まで江ノ島電鉄が通じ,28年には小田急江ノ島線によって新宿と直結され,急速に開発が進んだ。第2次大戦後は各種工業も立地し,57年以降,自動車,製薬などの工場誘致が進められ,北部を中心に工業団地も形成され,60年代には市域の北西部に大型団地の造成が急速に進められた。これらに伴って藤沢駅周辺の市街地再開発が進み,駅の南北にバスターミナル,大型小売店が軒を並べている。また,近年には市域の北郊の市街化が著しい。1966年に設置された小田急湘南台駅の西方には文化センターがあり,さらに西方の遠藤には慶応義塾大学のキャンパスがある。また99年には横浜市の戸塚から湘南台駅まで横浜市営地下鉄ブルーラインが開業した。相模湾上に浮かぶ江の島は対岸の片瀬・鵠沼(くげぬま)海岸とともに湘南観光の中心地となっている。
執筆者:

奈良・平安時代の文献にみえる高座郡土甘(とかみ)郷,大庭(おおば)郷,鎌倉郡尺度(さかと)郷,方瀬(かたせ)郷などの地がほぼ現在の藤沢市に比定される。藤沢には時宗の総本山清浄光寺があり,藤沢道場と呼ばれていた。室町時代の文書では〈藤沢〉と記して同寺を指している場合が多い。1333年(元弘3)5月,鎌倉へ攻め入る新田勢によって藤沢あたりも火をかけられ(《太平記》),1416年(応永23)10月勃発した上杉禅秀の乱でも,鎌倉公方足利持氏が鎌倉を追われたのち藤沢も戦場となった(《烟田文書》)。37年(永享9)持氏が関東管領上杉憲実を討つとの風聞がたち,6月憲実は鎌倉を去って藤沢に退いた(《永享記》)。

 後北条氏の時代には大鋸引(おおがびき)の職人の居地があり,彼らの伝馬,年貢が一部免除されたが,1568年(永禄11)北条氏康は藤沢の大鋸引頭森木工助に対して,延べ120人の職人の提出を命じている。また1561年閏3月28日には藤沢で新たに商売を始める場合,塩合物(塩漬魚類)の税は2年間,酒税は全面的に免除された(以上《森文書》)。なお《清浄光寺文書》によれば,71年(元亀2)7月16日藤沢のうち200貫が武田信玄(晴信)より清浄光寺に寄進されている。
執筆者: 江戸時代には東海道の宿駅として繁栄した。宿駅の成立は1601年(慶長6)。宿場町は,清浄光寺の門前集落としての性格が濃い大鋸(だいぎり)町をはじめとして,大久保町,坂戸町の3町からなっている。この3町のうち坂戸町が他の2町に比べ広いことが目だつ。宿駅は境川沿いの砂丘上に位置し,東海道を利用する旅人ばかりでなく,江の島や大山阿夫利(おおやまあふり)神社の参詣人相手の宿場町としてのにぎわいもみせ,宿場の住民や周辺村落民の地域市場として,毎月1・6の日に市も開かれた。宿継業務は,問屋場が坂戸町,大久保町に1ヵ所ずつ置かれ,問屋2人,年寄4人,帳附6人,馬指(うまさし)4人,人足指4人,出迎4人,下働16人が半数交代で毎月10日替りにつとめた。1798年(寛政10)の家数は808軒,人口は3384人を数え,1843年(天保14)の家数は919軒,このうち本陣1,脇本陣1,旅籠はたご)45軒となる。人口は4089人。64年(元治1)の家数は932軒,人口は4566人と幕末に至るほど家数,人口ともに増加し,大鋸町に隣接する鎌倉郡西村は嘉永・安政期(1848-60)ごろから町場化が進行している。
執筆者:

藤沢(旧町) (ふじさわ)

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本歴史地名大系 「藤沢」の解説

藤沢
ふじさわ

[現在地名]佐倉市藤沢町

佐倉城下の東端に位置する城外の侍屋敷地で、台地上に立地。文久二年(一八六二)に堀田家の江戸詰家臣の佐倉引揚げに際してもと町の東端を一部割いて屋敷地とし、城外藤沢じようがいふじさわと称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤沢」の意味・わかりやすい解説

藤沢
ふじさわ

岩手県南部、東磐井郡(ひがしいわいぐん)にあった旧町名(藤沢町(ちょう))。現在は一関(いちのせき)市の南東部を占め、北上(きたかみ)高地南端、北上川左岸に位置する。旧藤沢町は1926年(大正15)町制施行。1955年(昭和30)黄海(きのみ)、八沢(やさわ)の2村、大津保(おおつぼ)村の一部と合併。2011年(平成23)一関市へ編入された。葉タバコ栽培、養蚕地として知られ、近年は酪農も盛ん。宮城県との境にある館ヶ森(たてがもり)山には放牧場がある。地区への交通はJR東北本線花泉駅などからのバスによる。仙台藩政時代から昭和初頭までは、北上川の舟運が盛んであった。大籠(おおかご)は永禄(えいろく)年間(1558~1570)に備中(びっちゅう)(岡山県)から製鉄技術とともにキリスト教が伝わった地で、1639~1640年(寛永16~17)キリシタン300余人が処刑された。

[金野靜一]

『『藤沢町史』全2巻(1979、1981・藤沢町)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤沢」の意味・わかりやすい解説

藤沢
ふじさわ

岩手県南端部,一関市南部の旧町域。1926年町制。1955年黄海村,八沢村および大津保村の一部と合体,2011年一関市に編入。地域名は中世からの地名で,神奈川県藤沢にちなむという。東北の島原ともいわれるキリシタン殉教の地で,大籠地区にはキリシタン弾圧の供養碑などがある。陶芸が盛んで,土器などを焼く祭典,縄文野焼祭が行なわれる。北上高地に属する丘陵地帯で占められ,米作,タバコ栽培が行なわれる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

事典・日本の観光資源 「藤沢」の解説

藤沢

(神奈川県藤沢市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android