性海寺(読み)しようかいじ

日本歴史地名大系 「性海寺」の解説

性海寺
しようかいじ

[現在地名]西区押部谷町高和

性海寺川の上流に所在する寺。高和山と号し、高野山真言宗、本尊は如意輪観音建立者は明恵の師景雅とともに奈良興福寺で学んだ如幻といわれ(正元元年五月日「播磨国司庁宣案」性海寺文書、以下断らない限り同文書。「日本高僧伝」)、奈良東大寺末流の華厳修学の地であった(寛元三年五月日前太政大臣近衛兼経家政所下文)。「峯相記」は離念(行基の弟子)の建立を伝える。建久七年(一一九六)四月一一日の播磨国宣案によると、性海寺が示した僧徒の法三ヵ条が認められている。内容は乱行僧徒の居住を否定、坊宇の敷地私領化の禁止、寺領東西二〇町・南北一〇町内の殺生禁制に及ぶ。建保七年(一二一九)二月三重塔の建立が発願され、寛元二年(一二四四)春の末に完成した(同四年一一月二七日資財帳)。翌三年五月当寺住僧らの希望どおり近衛家の祈祷所となり(前掲兼経家政所下文)、同月七日本山である栂尾とがのお(現京都市右京区)の上人を通じてその旨が伝えられた(近衛兼経御教書案)。同年一二月当寺住僧らは樵夫・杣人・猟者らの寺領への乱入狼藉停止と、荒廃した寺内の坊舎や敷地などを一両年中に修理すること、力量に欠けた僧への譲与禁止を認められている(前太政大臣家政所下文)

性海寺
しようかいじ

[現在地名]稲沢市大塚町 門前

大江おおえ川の東にあり、大塚山と号し、真言宗智山派。本尊一光三尊善光寺阿弥陀如来・愛染明王。寺伝(性海寺所蔵)によれば、弘仁年間(八一〇―八二四)(尾張名所図会では弘仁九年)空海の創建で、愛染明王を本尊とし、境内に大塚を築き大聖歓喜天の鋳像を埋納したと伝える。さらに承久三年(一二二一)浄蓮源延が信濃善光寺の如来三尊を模刻して安置した。建長年中(一二四九―五六)(図会では建長三年)熱田神宮家出自の良敏が、中島郡主民部大輔長谷部源政を大檀越として、中興開山となった。

性海寺
しようかいじ

[現在地名]三国町南本

三国市街地のほぼ中央にある。真言宗智山派。金剛宝山と称し、本尊薬師如来。滝谷たきだん寺と並ぶ当地方の巨刹で、江戸時代は越前・加賀の触頭を滝谷寺と相役で務めた。延文元年(一三五六)宗信が、三国宿浦みくにしゆくうら篠谷ささだにに一宇を創建、篠谷山性海寺と称したのに始まり、初め律宗であったが、永徳元年(一三八一)二代空信の時、現在地に移り、改宗したという。

性海寺
しようかいじ

[現在地名]西区押部谷町高和おしべだにちようたかわ

性海寺川の流域に位置する村で、南の谷は高和村。慶長国絵図に性海寺とみえる。正保郷帳によると田方一〇六石余・畑方三二石余、松山あり。元禄郷帳では高一六九石余。明石藩領押部組に所属。延享三年(一七四六)の田高一〇二石余・五町七反余、畑屋敷高七石・一町四反、取米七二石余・免六ツ一分、寺一二、僧一三、水呑五軒、人数七四、牛一七、朱印高三一石(「巡見用手鑑」大西文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「性海寺」の解説

性海寺

愛知県稲沢市にある真言宗智山派の寺院。山号は大塚山。本堂、宝塔、多宝塔は国の重要文化財に指定されている。

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