御薗村(読み)みそのむら

日本歴史地名大系 「御薗村」の解説

御薗村
みそのむら

[現在地名]鈴鹿市御薗町

長法寺ちようぼうじ村の東にあり、背後に丘陵を負った河岸段丘上の集落で、南方なかノ川の両岸にかけて広大な水田が広がっている。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)に「吉清御厨 件御厨建立・奉免子細、追可注進之、供祭物 御贄米三石」とあり、「神鳳鈔」にも「内宮三石吉清御厨九、十二月」とあるが、同書一本には「清生御薗」とあり、吉清・清生ともに当村の清成きよなりの地とされる。

御薗村
みそのむら

[現在地名]伊那市大字伊那いな 御園

天竜川の右岸氾濫原に近い段丘上の東端に発達した村で、北は神子柴みこしば村(現上伊那郡南箕輪みなみみのわ村)、南は山寺やまでら村に接し、西には原野が広がっている。

嘉暦四年(一三二九)の諏訪大社上社文書の大宮御造栄之目録に「伊那御薗之役、三間臂木造二(枚)、縁欄干、香炉(高欄)、階級銀宝子立之也」とみえるのが地名の初見。以後の上社の諸史料にも散見し、諸役を果していることがわかる。特に伊那廻りたたえ神事巡行の地にあたっていた。

御薗村
みそのむら

[現在地名]三島市御園みその

長伏ながぶせ村の南にあり、狩野かの川に大場だいば川が合流する地点の北側に位置する。狩野川の南対岸は駿河国駿東すんとう大平おおひら(現沼津市)、大場川の対岸は田方たがた塚本つかもと(現函南町)。中世御薗郷の地。天正一八年(一五九〇)一〇月検地があった(「田方郡御薗之郷検地帳」大城家文書)。元禄郷帳では高三九一石余。江戸時代の初めは幕府領。宝永四年(一七〇七)上野高崎藩領、延享三年(一七四六)幕府領、文化八年(一八一一)旗本大久保領となり幕末に至る(韮山町史)

御薗村
みそのむら

[現在地名]員弁町御薗

金井かない村の北に位置する。村名は伊勢神宮領の御薗に由来すると思われるが、「五鈴遺響」は「神風徴古録」を引用して、「神鳳鈔」「外宮神領目録」などにみえる「高畠御薗」を当村の地とし、村名もこれに由来すると述べている。江戸時代を通じて桑名藩領。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、家数一二、人数五八、牛二。

御薗村
みそのむら

[現在地名]明日香村大字御園みその

檜前ひのくま村の北方に接続する。伊勢神宮の御厨では田所を御田、蔬菜類を作る所を御園という。吉野郡宮滝みやたき(吉野離宮伝承地、現吉野町)にも同名の村がある。

御薗村
みそのむら

面積:六・五五平方キロ

県の中東部、伊勢平野南部宮川の河口近い東岸にある。宮川の形成した氾濫原の低平地である。西部の一部を小俣おばた町に接するほか伊勢市に隣し、伊勢市に入組んだようになっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報