弘誓寺(読み)ぐぜいじ

日本歴史地名大系 「弘誓寺」の解説

弘誓寺
ぐぜいじ

[現在地名]五個荘町金堂

金堂こんどう集落のほぼ中央にある。石畑山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来近江七弘誓寺の一つ。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔開基愚咄〕

寺蔵の「累代之記」によれば、開基を愚咄とし、正応五年(一二九二)に関東の親鸞旧跡巡拝から帰京途次の本願寺覚如により弘誓寺の寺号を許されたという。愚咄は元禄五年(一六九二)年紀をもつ末寺明細書、石畠系図・弘誓寺由緒書(いずれも寺蔵)によれば、下野国那須氏の系譜を引くとされる。さらに「存覚上人袖日記」の記述から瓜生津うりゆうづ(現滋賀県八日市市)に教線を伸ばした初期真宗の関東横曾禰性信系の門流の系譜を引いていることが判明する。愚咄は錦織きんしよく(現同県中主町)の開基慈空の兄といわれることや、当寺三代の明観を錦織寺慈観の次男で慈達の弟とするなど、錦織寺との関係が想定されるが、不明な部分が多い。

弘誓寺
ぐぜいじ

[現在地名]八日市市瓜生津町

瓜生津うりゆうづ町の南部、蛇砂へびすな川北岸にある。金剛山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。近江七弘誓寺の一つ。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔愚咄開基伝承〕

開基は愚咄で、明治末期の由緒略記(龍谷大学蔵)によれば、金堂こんどう(現滋賀県五個荘町)小川躰光寺おがわたいこうじ(現同県能登川町)の弘誓寺と同様に、下野国那須氏の系譜を引く。錦織寺起立并代歴実禄(錦織寺蔵)の愚咄の部分には「当国瓜生津ニ移住シ寺ヲ建立シテ、其寺ノ開基トナル、則今ノ瓜生津弘誓寺是ナリ」とある。また「大谷本願寺通紀」の錦織きんしよく(現同県中主町)の項によれば、僧願明(石畠資長)に愚咄と慈空の二子があり、愚咄は江州瓜生津で一寺を創建して弘誓寺と称し、のちこれより「石(ママ)村弘誓寺・金堂村弘誓寺」の二ヵ寺が分れたという。

弘誓寺
ぐぜいじ

[現在地名]能登川町躰光寺

躰光寺たいこうじ集落の北にある。石畠山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。所在地は躰光寺だが、古くから小川おがわ弘誓寺として知られる。近江七弘誓寺の一つ。江戸期には神崎かんざき郡内に二〇余の末寺・道場をもつ中本山であったが、その由緒は判然としない点がある。小川弘誓寺と金堂こんどう弘誓寺(現滋賀県五個荘町)は寺基を同じくし、慶長期(一五九六―一六一五)の本願寺の東西分立期に分立したと考えられる(しかし分立時期はより古い可能性もある)。そして分立以前の小川弘誓寺はすでに観応期(一三五〇―五二)に小川に寺基を形成していたとみる見方と(存覚上人袖日記)犬上いぬかみ石畠いしばたけ(現同県豊郷町)にあったという弘誓寺から分れたとみる見方が成立つが、明らかにしがたい。

弘誓寺
ぐぜいじ

[現在地名]八日市市建部下野町

建部下野たてべしもの町のほぼ中央、舞羅まいらにある。近江七弘誓寺の一つで、建部弘誓たけべぐぜい寺とよばれる。報身山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。「浄土宗寺院由緒書」によれば、文永七年(一二七〇)の起立、開山は音阿という。ただし「報身山弘誓寺代々」と題する寺蔵の過去帳では、音阿の没年を文永元年と伝えている。寺伝によれば、初め建部社(現日吉神社)神宮寺大願だいがん寺と称していたが、正元年間(一二五九―六〇)に那須氏が下野国から建部の領主となってこの地に至り七弘誓寺を建てた際、当寺を改称し、その一つとしたというが、史料的な明徴を欠く。

弘誓寺
ぐぜいじ

[現在地名]堀之内町田川

田川たがわの集落背後の山沿いにある。真言宗智山派、大悲山と号し、本尊正観世音菩薩。縁起によると、長和五年(一〇一六)海信が観音像を刻んで創建。その後足利義満が田川・下島しもじま吉水よしみず田代たしろなどで一貫文の寺領を寄進し、六間四面の堂宇が再建された。構内には一二の坊舎があり、末寺一五ヵ寺を擁する大寺であった。天正一九年(一五九一)兵火にかかり、堂塔伽藍をことごとく焼失したという。寛延元年(一七四八)九月に再度焼失。同年一〇月の出火報告(堀之内町史)が残る。末寺には、明神の常泉みようじんのじようせん寺、下倉の竜泉したぐらのりゆうせん寺、根小屋の教覚ねごやのきようかく寺、七日市なのかいちの不動院・大沢の竜徳おおさわのりゆうとく(以上現湯之谷村)佐梨の円福さなしのえんぷく寺・板木の遍照いたぎのへんしよう寺・小出島の明王こいでじまのみようおう(以上現小出町)木沢の円柳きざわのえんりゆう(現川口町)があった。

弘誓寺
ぐぜいじ

[現在地名]水沢市姉体町

姉体あねたい町のほぼ中心、といくちにある。坂本山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。当寺の由来・沿革は兵火のため記録を失って不明の点が多いが、当地の及川文書などによると以下のように推移している。寺が但馬国にあった文治二年(一一八六)頃及川小次郎盛綱の帰依を受け、以後及川家の菩提寺として寺基を転々と移動。寛喜年間(一二二九―三二)上総国にあったとき北条時政の臣下であった及川政綱が親鸞の教えを受けて真宗となり、嘉吉三年(一四四三)及川家とともに奥州桃生ものう大田おおた(現宮城県桃生郡桃生町)に移り、さらに天文―永禄年中(一五三二―七〇)磐井いわい沖田おきた(現東磐井郡大東町)に寺基を移している。

弘誓寺
ぐぜいじ

[現在地名]名取市植松四丁目

集落西方の字やまにある。金剛遊山と号し、真言宗智山派、本尊は不動明王。「植松村安永風土記」によれば、弘法大師空海の開基、寛喜二年(一二三〇)慈明坊良賢が近江石山いしやま観音の霊夢により中興、以来安永二年(一七七三)までに三五世を経たとある。天和二年(一六八二)四代藩主綱村より寺領二貫文を与えられた。着座格に列し、本郷ほんごうの八幡寺、堀内の高照ほりうちのこうしよう寺など名取郡内に末寺一六ヵ寺を有していた。天明八年(一七八八)奥州を旅した古河古松軒の「東遊雑記」には「植松村といふあり。

弘誓寺
ぐぜいじ

[現在地名]上川郡比布町中町二丁目

町中央部に位置。大悲山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。明治二八年(一八九五)比布ぴつぷ原野に入植した滋賀団体が、鷹栖たかす近文ちかぶみ(現旭川市)一線いつせん三号の同派説教所で法話会を開いたのに始まる。同二九年北一線きたいつせん四号に草庵を建て、本山より絵像本尊などの下付を受け説教所を開設。同三三年堂宇を新築、同三七年真宗本願寺派比布説教所を創設し、同四一年弘誓寺として創立を認可された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「弘誓寺」の解説

弘誓寺

(滋賀県東近江市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android