植松村(読み)うえまつむら

日本歴史地名大系 「植松村」の解説

植松村
うえまつむら

[現在地名]防府市大字植松

佐波さば川の左岸、河口近くに位置し、近世初期に開作が進み村域は広がった。東は仁井令にいりよう伊佐江いさえ、北は佐波川を挟んで佐野さの大崎おおさきの各村。南に西にしうら女山めやまがある。萩藩領で三田尻宰判に属する。

大永二年(一五二二)の年号ある植松八幡宮棟札に「大崎庄植松」とみえる。その頃この辺りの地は大内氏の臣杉次郎左衛門興相が領していたらしく、孫元相も毛利氏に仕えた。元相は自分の菩提寺である興元こうがん(現徳山市)建立のために「佐波郡植松村拾石」の地を寺領として寄進している(「寺社証文」所収興元寺文書)。天正一七年(一五八九)元相の子小次郎元宣が横死し、その地の一部が山口の多賀たが大明神(現多賀神社)に打ち渡された(「寺社証文」所収多賀神社文書)

慶長一五年(一六一〇)検地帳では総石高一千九三〇石、うち田方一〇〇町余で一千五七七石、畠方二〇町余で一四四石余、百姓屋敷一三七、塩浜方一二一石余を記す。

植松村
うえまつむら

[現在地名]八尾市植松町一―八丁目・南植松みなみうえまつ町一―五丁目・永畑ながはた町一―三丁目・相生あいおい町一―三丁目・松山まつやま町一―二丁目・明美あけみ町一―二丁目・陽光園ようこうえん一―二丁目・安中やすなか町一―三丁目・同五―九丁目など

長瀬ながせ(旧大和川の本流)の左岸に沿い、集落は奈良街道に面して発達している。北西の摂津天王寺てんのうじ(現天王寺区)平野郷ひらのごう(現平野区)からきた奈良街道は、当村を抜けて長瀬川沿いに柏原かしわら村・国分こくぶ(現柏原市)の方へ向かう。一方、当村から北の久宝寺きゆうほうじ村・八尾寺内じない村などへ向かう道もあり、交通の要地を占める。村域の一部は長瀬川の北へも広がり、奈良時代に称徳天皇が弓削道鏡とともに参詣した竜華りゆうげ寺の所在地と考えられている。

植松村
うえまつむら

[現在地名]名取市植松・植松一―四丁目

名取ヶ丘丘陵の東端にあり、南を川内沢かわうちさわ川が東流する。北は飯野坂いいのざか村、南は本郷ほんごう村。村名は弘誓ぐぜい寺の門前にあった栽松うえまつに由来するとされる(封内風土記)。「観蹟聞老志」では栽松は源重之によって詠まれた鼻輪はなわの松(花輪松)のこととする。天文七年(一五三八)の段銭古帳には「上まつ」とみえ段銭は八貫一二〇文。同二二年集成の晴宗公采地下賜録によれば、天文一一年六月まで富沢右馬頭分であった「なとりのうへ松に一けん」が宮崎下総へ下され、棟役・段銭が免除されている。また「なとりうへ松の内、きたの在家」は大橋蔵人に下されている。正保郷帳では田四五貫四二四文・畑四貫二五九文、ほかに新田二四貫九九八文とある。

植松村
うえまつむら

[現在地名]伊丹市伊丹六―八丁目・うめ二丁目・同四丁目・平松ひらまつ一―七丁目・南本町みなみほんまち一―七丁目・南町みなみちよう二―三丁目

伊丹郷町を形成する一五ヵ村の一村。伊丹郷町の最南端に位置し、大坂道に沿う。文禄伊丹之図に村名がみえる。上松村とも記した(「大工仲間定書」宮本家文書)。古墳を利用した荒木村重有岡ありおか城の鵯塚ひよどりづか砦跡がある。鵯塚には薬師堂があり薬師山とよばれた(「文化改正伊丹之図」伊丹市立博物館蔵)。寛文九年(一六六九)の伊丹郷町絵図には植松村の南側の街道沿いに「植松村内茶屋」がみえる。領主の変遷は伊丹町に同じ。

植松村
うえまつむら

[現在地名]浜松市植松町

東海道がほぼ中央を東西に貫く。東海道沿いでは長上郡の西端にあたる。西は敷知ふち天神てんじん町。永享四年(一四三二)足利義教の富士下向に従った飛鳥井雅世の「富士紀行」に「此国の府中をたち侍るに、あけほのゝ空霧わたりて、雁の鳴侍るを聞て、うへ松と申所にて」とあり、歌を詠んでいる。尭孝の「覧富士記」には「うへ松のハら」を詠んだ歌が載る。

植松村
うえまつむら

[現在地名]榛原町静波しずなみ

柏原かしわばら村の東に位置し、龍眼りゆうげん山南麓に立地する。南は入会の浜。文禄二年検地高目録に上松村とみえ、高五六石余。寛永二一年(一六四四)の掛川領三万石郷村高帳では高四九石余。正保郷帳では田方三一石余・畑方一五石余、ほかに曹洞宗宗光そうこう寺領五斗がある。江戸時代の領主の変遷は確認できる限り川崎町かわさきちよう村と同じ。掛川領知行調(浜松市立中央図書館蔵)では寛政五年(一七九三)の高八〇石余、うち新田二四石余。文政一三年(一八三〇)の覚(榛原町史)によると、当村は川崎町村・柏原町に続く往還(田沼街道)沿いにあり、入会の浜を切起して塩焼をしている。

植松村
うえまつむら

[現在地名]灘崎町植松

北の藤戸ふじと(現倉敷市)境を流れる郷内ごうない川の河口部に位置し、北東は児島湾に面する。清田きよた八幡神社(現倉敷市)の元和元年(一六一五)上葺再興棟札に、勧進者として当村の長右衛門尉らがみえる。寛永備前国絵図では高二六二石余。その後植松村新田一五石余の開発(寛文四年備前備中当御代新田帳)などで、海水の湾入していた郷内川河口部が次々と干拓された。享保六年(一七二一)の田畠一九町七反余、家数六六・人数三八一、船五(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高二六二石余、直高四〇七石余で蔵入、田一四町五反余・畑五町三反余、ほかに開方として田畑一一町一反余、井戸三一、池三、樋二八、石橋一、家数八一・人数三八八、牛二二、紺屋一軒、家大工三、木挽・桶屋・左官各一がいる。

植松村
うえまつむら

[現在地名]河辺村植松

木菱きびし川と秋知しゆうち川とが出合であいで合流し、河辺川となって村の中央を西流するY字形の峡谷にまたがって立地する。奥の河辺七ヵ村の門戸の位置を占め、現在は村役場の所在地となっている。東は北平きたひら村、南は橡谷とちたに村、西は山鳥坂やまとさか村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多郡の項に「上松村 日損所、茅山有」とある。大洲藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には「植松村 古跡、西明寺松とて大なる松有り、むかし最明寺時頼公行脚の時、植おき給ふと云、信じがたし、土産 米・大豆」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報