金堂村(読み)こんどうむら

日本歴史地名大系 「金堂村」の解説

金堂村
こんどうむら

[現在地名]五個荘町金堂

石川いしかわ村の北、塚本つかもと村の北東部にある。村名は聖徳太子建立の金堂に由来するとの伝承をもつ。ただし郷帳などには今堂こんどう村とある。寛永石高帳では高九六七石余、寛文四年(一六六四)検地ではこのうちから高不足の七七石余を引いた八八九石余が村高となる(同年「検地帳」金堂区有文書)領主の変遷は川並かわなみ村と同じ。貞享二年(一六八五)大和郡山藩本多氏領となって以後当村に陣屋が置かれた。寛文四年の検地帳では田五〇町八反余・畑屋敷五町九反余、上田が田地の九割以上を占める。用水伊野部いのべ西にしさわに源を発する北町屋きたまちや川や塚本清水しゆうず・石川村北浦きたうら水源とする外川そとがわ湧、および塚本村より流下する古屋ふるや川などが利用されたが、村域東部を中心に多数の井戸も掘られ、用水不足を補っていた。

集落は村域の中部から南部にかけて密集し、東南出ひがしみなみで(安政二年の軒数二六)・西南出組(同二三)中村なかむら(同三五)新牧しんまい(同三〇)・東北出組(同二五)・西北出組(同一六)・西出組(同三六)の七つの村組に分れ、村高も各組ごとに分割されていた(「村内七組家別高付控」金堂区有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報