式子内親王(しょくしないしんのう)(読み)しょくしないしんのう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

式子内親王(しょくしないしんのう)
しょくしないしんのう
(?―1201)

鎌倉前期の歌人。式子は「しきし」ともいう。後白河院(ごしらかわいん)第3皇女。母は権大納言(ごんだいなごん)藤原季成(すえなり)の女(むすめ)、従三位(じゅさんみ)成子(せいし)(高倉三位(たかくらのさんみ))。亮子(りょうし)内親王殷富門院(いんぷもんいん))、好子(こうし)内親王、守覚法親王、以仁王(もちひとおう)、休子内親王は、式子と同母の兄弟姉妹である。1159年(平治1)7、8歳で賀茂斎院(さいいん)に卜定(ぼくじょう)され、69年(嘉応1)病により退下するまで、ほぼ10年の間奉仕する。退下後、萱(かやの)御所に住んだので萱斎院(かやのさいいん)とよばれ、後白河院崩御後は大炊御門(おおいのみかど)殿へ移り、大炊御門斎院とよばれ、また小斎院(しょうさいいん)の称もある。肉親の縁に薄く、母高倉三位の死、後見人伯父の死、同母兄以仁王の反乱と敗死と、相次ぐ不幸にみまわれた。この前後に出家して法名を承如法(しょうにょほう)という。晩年、橘兼仲(たちばなのかねなか)の陰謀事件に連座し洛外(らくがい)へ追放されそうになったり、生涯は暗く悲惨であった。このような実人生のなかで、藤原俊成(しゅんぜい)の指導により和歌を学ぶ。『古来風体抄(こらいふうていしょう)』は初め内親王に献じられたと伝える。内親王の病悩のようすが藤原定家(ていか)の『明月記』にみえ、「正治(しょうじ)二年後鳥羽(ごとば)院初度百首」(1200)を詠進した翌年の春正治3年1月25日、薄幸の生涯を終える。歌は『千載(せんざい)集』に初出。新古今時代の代表的な女流歌人で、家集に『式子内親王集』がある。死後も内親王の墓に定家葛(かずら)がまつわりついたという定家と式子内親王の激しい恋の伝説が伝えられ、能『定家』がある。

[糸賀きみ江]

 山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水

『久松潜一他校注『日本古典文学大系80 平安鎌倉私家集』(1964・岩波書店)』『竹西寛子著『日本詩人選14 式子内親王・永福門院』(1972・筑摩書房)』『馬場あき子著『式子内親王』(講談社文庫)』


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