殷富門院(読み)いんぷもんいん

朝日日本歴史人物事典 「殷富門院」の解説

殷富門院

没年建保4.4.2(1216.4.20)
生年:久安3(1147)
平安後期から鎌倉初期の女院。後白河天皇の第1皇女亮子内親王。母は藤原季成の娘成子(高倉三位局)。以仁王,守覚法親王,式子内親王らの同母の兄弟。保元1(1156)年に内親王となり,3年まで伊勢斎宮を勤め,寿永1(1182)年に安徳天皇准母として皇后となった。文治3(1187)年6月に院号宣下,殷富門院と称した。後白河法皇没後の建久3(1192)年11月,仁和寺法金剛院で出家する。弟の仁和寺御室守覚法親王が万事を取り計らい,以仁王の息子で女院の猶子となっていた仁和寺僧道尊が剃り手を勤めた。後白河法皇から金剛勝院や押小路殿を伝領したが,出家後は仁和寺東南の安井殿に住み,正治2(1200)年10月御堂を建てて盛大に供養を営み,蓮華光院と号した。この供養導師も守覚法親王が勤めた。御堂は道尊に譲られて安井門跡(蓮華光院)の祖となる。女院には猶子が多く,道尊の他に九条兼実の息子で仁和寺僧となった良恵,後鳥羽院の第2皇子の長仁親王(のちの仁和寺御室道助入道親王)と,東宮守成親王(順徳天皇)をも猶子とした。鎌倉初期の女院の御所は,女房たちと殿上人が集う華やかな文芸の場でもあった。

(土谷恵)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「殷富門院」の意味・わかりやすい解説

殷富門院
いんぷもんいん
(1147―1216)

平安後期の伊勢斎宮(いせさいくう)。後白河(ごしらかわ)天皇の皇女、亮子内親王。1156年(保元1)4月19日、内親王宣下(せんげ)、即日伊勢斎宮となる。80年(治承4)5月には以仁(もちひと)王の邸にいたという。82年(寿永1)安徳(あんとく)天皇の准母となり、皇后と尊称される。87年(文治3)皇后宮職をとどめられ院号宣下。92年(建久3)春、後白河法皇より金剛勝院(こんごうしょういん)と押小路殿(おしこうじどの)を伝領したが11月9日出家。のちに1200年(正治2)御願寺として蓮華光院を建立した。建保(けんぽう)4年4月2日死去。

[佐藤和彦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「殷富門院」の意味・わかりやすい解説

殷富門院
いんぷもんいん

[生]久安3(1147).京都
[没]建保4(1216).4.2. 京都
後白河天皇の皇女,亮子内親王。母は藤原成子。保元1 (1156) 年内親王,伊勢斎宮となり,同3年斎宮を退下。安徳天皇後鳥羽天皇の准母として皇后と尊称。文治3 (87) 年院号宣下。建久3 (92) 年落飾,法名真如観。京都蓮華光院法華堂に葬る。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「殷富門院」の解説

殷富門院 いんぷもんいん

1147-1216 平安後期-鎌倉時代,後白河天皇の第1皇女。
久安3年生まれ。母は藤原成子(せいし)。久寿3年(1156)内親王,さらに伊勢斎宮(いせさいぐう)となる。寿永元年安徳天皇の准母(じゅんぼ)として皇后とよばれる。のち後鳥羽天皇の准母。文治3年院号をゆるされ,建久3年出家した。建保(けんぽ)4年4月2日死去。70歳。名は亮子。法名は真如観。

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